きょうは福島市の渡利地区を取材。
福島市でも放射線量が高い地域であることは承知していたが、
実際に訪ねるのは初めてのことである。
土地鑑を得るために駅から歩いて行ったのだが、
およそ30分、県庁の裏手で阿武隈川を渡るとすぐそこが渡利だ。
中心部にほど近い交通至便な住宅街である。
弁天山という小山があって、
そこの樹木がどうやら線源になっているらしい。
お訪ねしたお宅は弁天山から流れ出す幅1mほどの水路の脇で、
玄関は水路に面しており、ちょっとした庭がある。
いまは水路には水が流れておらず、落ち葉が溜まった状態。
その水路脇にある柿の木の根元あたりで地表が30μSv/h、
地上1mでも4.42μSvある。
これは南相馬の山あいのホットスポットに比べても高い数字だ。
30万都市の中心部に近い人口密集地に
こうした高線量地帯が存在するという事実は戦慄に値する。
ぼくの取材スタイルは「一点突破・全面展開」。
一つの地域を人間サイズでとことん見つめ抜くことで
普遍的な課題を抽出したいと心がけている。
だから取材範囲はむやみに広げない主義なのだが、
福島の放射能問題に関してはそうも言っていられなくなった。
住民の1/3が避難したままの南相馬と、
現時点で人が住んでいない、例えば浪江町、
そして、住民の大半が
(公費による)避難を認められずに住んでいる渡利とでは、
事情がまるで違っているのである。
にも拘らず、「福島」と一括りにした議論が罷り通っている。
大学教授などいわゆる「識者」が
信じられないような粗雑な論を公にして愧じない風潮には、
現場を知る人間として激しい怒りを禁じ得ない。
きのう群馬大学の火山学者である早川由起夫氏が
twitterなどネットでの発言の責任を問われ
大学当局から訓告を受けたことが話題になった。
ぼくはネットでの発言を
本人ではなく大学に抗議する(チクる)ことで
封じこめようとするほど下衆な人間ではないつもりだし、
訓告の是非についてはひとまず措くが、
早川氏の発言自体は酷いものだと思っている。
福島で牛を飼ったり米を作っている農家を
「サリンを作ったオウムの信者と同じ」だなどとして
テロリスト扱いするなど、
扇情的で、いたずらに恐怖感を煽る、一種のデマゴギーである。
早川氏は、
例えば年間何mSv以上は耕作すべきではないなどと、
数値を上げて問題提起しているわけではない。
福島産米の大半が
放射線はND(測定限界値以下)であったことも無視している。
第一、火山学者である早川氏は、
低い放射線量でも健康被害が発生すると断定する根拠を
ぼくの知る限り何も示してはいないのである。
「福島」を一括りにしたうえで
論証抜きに「汚染」と結びつけるこうした言説は
「負のイメージとしての福島」の固定化以外の何ものでもない。
その一方で、
全く逆の立場からなされた無責任な言説も目にした。
経済学者の池田信夫氏の「エコノMIX異論正論」である。
同じく昨日ネットで公開された文章である。
池田氏はこの文章で「除染」は税金の浪費ではないかと問う。
それはいい。
ぼく自身、勝算もないまま全面戦争に突入していくが如き、
現在の除染の進め方には大いに疑問を持っている。
問題は氏の論理展開のあまりの乱暴さである。
「微量放射線の影響については議論があるが、
健康に影響があるとしても数十ミリシーベルト以上であり、
1ミリシーベルト程度で健康被害が出ることはありえない」
…というセンテンスが池田氏の立論の大前提である。
具体的な数字を挙げているだけ早川教授よりマシだが、
この文章が矛盾していることは指摘するまでもないだろう。
一方で「議論がある」ことを認めながら、
放射線医学の専門家でもない氏が
「健康被害が出ることはありえない」などと
いったい何を根拠に断定をしているのだろうか。
これが専門家の間でも見解が異なる議論の焦点であることは
先日のブログにも書いた通りである。
池田氏は自身のブログで
「500ベクレル/kgの野菜は青酸カリより危険」
と書いた武田邦彦氏を批判、
「彼は放射線医学の専門家ではないのだから、
こういう話には何の科学的根拠もない」と書いているが、
まさにブーメランというもので、
そのまま池田氏自身に返ってくる言葉である。
氏はこの「科学的根拠もない」前提を基に除染を否定し、
「その費用は最終的には汚染源である東電に請求されるので、
首都圏の電力利用者に転嫁され、
東電の経営が破綻したら納税者が負担する」と書く。
これは煎じ詰めれば、
「お金がもったいないから、
福島県民は我慢してそのまま暮らせ」と言うに等しい。
早川氏と池田氏の論理は結論こそ真反対だが、
ぼくには(裏と表の関係にすぎない)相似形に見える。
二人に共通するのは「知」に対する謙虚さの欠如である。
「低放射線のリスク」という議論のあるテーマに関して
専門性を持たない火山学者や経済学者が一方的な裁定を下し、
その裁定を基に極論ともいうべき議論を展開している。
これは「知識人」の風上にも置けない傲慢である。
そして、何より腹立たしいのは、
二人とも「福島で現に生活している人々」に対する想像力が
見事なまでに欠落していることである。
「ジャーナリスト」という呼称は
最近安っぽくなってしまってあまり使いたくないのだが、
少なくとも「福島」を見つめている人間の一人として
こうした「知識人」の無責任な言説に異議を申し立てておく。
コメント
コメントを投稿