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NHKスペシャル「堕ちた特捜検察」

日曜日(26日)に放送されたNスペ「堕ちた特捜検察」の再放送をみた。
いろいろ思うところがあり、twitterに連続投稿したのだが、手を加えてブログの形でまとめておく。
これはぼくの個人的な覚書みたいなものである。


Nスペ「堕ちた特捜検察」はなかなか面白かった。
検察のあるべき姿を憑かれたように熱っぽく語る熊崎元特捜部長の、
しかし、よく聞けばタテマエ論に終始して内容空疎であること。
そういう“本質”をざくっとさらけ出して見せるのが映像メディアの強みである。
「可視化」の問題にも触れつつ検察捜査の密室性と「人質司法」に言及した江川紹子さんは大健闘。
しかし、いかんせん、このテーマをきちんとやるには如何にも時間不足だった。
江川さんが指摘した問題の本質は、
例えばtwitterでの議論をフォローしていない多くの視聴者には理解できなかったのではないか。
もっといえば、番組を作ったスタッフがどこまで意識的であったかもぼくは疑ってしまう。
本当ならば、
江川さんの意見も、特捜検察の変質を語った立花隆さんの意見もあらかじめ聞いたうえで、
まず自分たちはこの番組で何を問題として提起するのかテーマを絞り込み、
そこから番組の構成をスタートすべきだっただろう。
ただ、ぼくはTVメディア内部の人間だから、
大勢のスタッフがよってたかって短時間で仕上げる番組にはそんな余裕はないことを知っている。

「人質司法」(罪を認めなければ釈放に応じず長期間拘束を続けること)は日常化しており
「取り調べの密室性」にしてもことさら特捜検察に限った問題ではない。
日本の司法システムが持つ矛盾が象徴的に先鋭化したのが今回の前田問題だと考えるべきではないか。
そうすることで初めて、村木さんから足利事件の菅家さんまでを見通せる視野が獲得できるはずだ。


*余談だが、証拠を偽造した前田特捜検事は広島大学法学部の卒業生で、
 ぼくの10年ほど後輩に当たることを番組で初めて知った(ぼくの時代は「政経学部」だった)。
 広大から司法試験に合格するのは年に何人もいないはずで、
 “中央”に進出していく彼には、
 東京のエリート大学を卒業してきたヤツらには負けまいという対抗心があったのではないか。
 ぼくがそうだったから思うのだが、
 田舎大学の出身者には、しばしばコンプレックスと裏腹(?)の強烈な自負心がある。
 だから、認められようとして頑張りすぎ、ときにやり過ぎる。
 (ぼくはほどほどにしか頑張らなかったから、無事是名馬で50代半ばを迎えたのだが…w)


番組では「あらかじめ決めたストーリーにあてはめた捜査」のあり方が問題とされた。
このブログにも何度か書いてきたように、
TV界でも最近は「あらかじめ決めたストーリーにあてはめた報道」が目立つようになってきている。
ぼくのみるところ、この20年ほどのあいだに顕著になってきた傾向である。
前田検事が入職したのはちょうどその頃で、
法曹界でも放送界でも時を同じくして同じことが起きつつあったわけだ。
(新聞においても、ほぼ同じだったのではないかと推測する。)
前田検事が上司の捜査方針によく合致する調書をとってくるので評価されたという話が紹介されていたが、
テレビ界においても、
プロデューサーが描いた構図にぴったりあう内容を取材(ロケ)してきたディレクターが優秀とみなされた。
ぼくが駆け出しだった頃であればディレクターがプロデューサーに逆らうのは日常茶飯事だったが、
そんな風景はめっきり見られなくなって、なんだかみんな「いい子」になったなあ…と思ったものだ。

もっとも、ぼくは「構図を作る」ことそのものを否定しているわけではない。
番組を作るときには「仮説」が必要であり、
仮説は現実をフィードバックすることによって時々刻々修正されるべきである。
しかし、次第にそのダイナミズムが失われて、
「仮説」だったはずのものがそのまま「結論」になってしまったとしか思えない番組が増えた。
最近では、
現場に出ていない人間が頭のなかで作った構図(ぼくは意地悪く「妄想」と呼ぶ)を
そのまま絵にしたような番組ばかりが目立つようになってしまった。
どうやら検察とテレビ界は相似形の「劣化」をたどってきたのであるらしい。

Nスペ「堕ちた特捜検察」に関わった作り手たちは、
現場のトップのプロデューサーでもぼくよりずっと若い人のはずだ。
彼らがどういう思いでこの番組を作ったのか、
マスメディアが抱えこんだ「劣化」を検察に重ね合わせて同病あい哀れむ思いを感じていたのかどうか…
ちょっと皮肉な気分でぼくは番組を見ていた。
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