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吉村昭の「三陸海岸大津波」(文春文庫)を読んでいる。
いまから41年前の1970年に書かれた本だ。
データを中心に淡々とした筆致で描いたルポルタージュで、
物語性は敢えて排したと思われるが、これが実に怖い。
明治29年(1896)の大津波、
昭和8年(1933)年の大津波のことは
現地で取材していると否が応でも聞くことになるが、
その被害の実態を残された記録と聞き書きによって克明に描いたもの。
明治の時には住民の半数以上が亡くなった町や村がたくさんあるんだね。
今回の大津波は決して「想定外の災害」ではなく、
むしろ起こるべくして起こった、
三陸では歴史上再三再四繰り返されてきたことだというのがよく解る。
この本を読んでいて骨身に染みて理解させられるのは、
三陸沿岸は、
数十年に一度は津波でリセットされるのが宿命の土地だということだ。
リアス式海岸の美しい風景と豊かな海の幸は、
多くの命と暮らしのすべてを奪っていく大海嘯と表裏一体の関係にある。
「天災は忘れるまでもなくやってくる」のだから、
この土地の人々はどうにかそれと折りあって生きていくしかない。
「宿命」という、古風で大仰な言葉で表現するしかない風土なのだ。

明治、昭和と二度にわたって大きな被害を受け、
「津波太郎」と異名をとる宮古市田老地区(写真上)。
ぼくはひょんな偶然(あるいは「宿命的な出会い」)から、
この土地の復興への足どりを定点観測することになった。
三月の下旬に初めて訪れたときには一面の瓦礫の山だったが、
それがきょうまでに随分片づいており、
片づけば片づいただけ全てが更地になってしまった喪失感が滲む。
海沿いに基礎と水道設備だけが残されたこの建物(写真中)は、
きっと水産加工場だったのだろう。
幾重にも張り巡らされた防波堤が無残に破壊されたさまが見て取れる。

同じ田老地区の小堀内漁港(写真下)。
ここでは津波が38mの高さにまで達したことが確認されている。
復旧作業のおばさんたちが小休止をとっている崖の上、
波が打ち上げた塵芥がこの高さにまで達しているのがわかる。
この場所に立って津波の到来を見守っていた消防団や漁業関係者が流され、
二人が遺体で見つかり、七人はいまだ行方不明のままだという。
こんな高さまで津波が襲ってくると、いったい誰が想像できただろうか。
自然の圧倒的なパワーを前にしては人間はちっぽけな存在で、
その力を(恵みとともに)受け容れて生きるしかないことを教えてくれる。
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