札幌から函館に向かう列車のなかで
出版されたばかりの「ホットスポット」(講談社)を読んでいる。
芸術作品賞など各賞を総ナメにした
「ネットワークでつくる放射能汚染地図」の制作過程、
そして、取材を通して浮かび上がった
放射能汚染の深刻な現実を生々しく記録したものである。
放送に至るまでのある種の裏話も忌憚のない筆致で描かれており、
“ある意味では”番組以上に面白い。
読み始めたとたんに
ぼくの名前(実名)がちらっと出てきて驚かされる。
しかし、それもそのはず、
番組作りに携わったディレクターの中核であり、
この本の執筆の中心にもなっている七沢潔と大森淳郎は、
もう25年以上一緒にやってきた仲間だからだ。
この場合、「仲間」という言葉は、
単に同じ組織に属する「同僚」であることを意味しない。
1980年代の後半に
若手ディレクターとして
「ぐるっと海道3万キロ」という番組で鍛えられ、
その後の任地や担当番組は違っていても
志を共有しながら番組を作り続けてきたTV屋仲間、
NHKドキュメンタリーの流れを汲む「残党」なのである。
あえて「残党」という言葉を使ったのは、
TVドキュメンタリーは「冬の時代」が続いているからだ。
こう書くと意外に思われる方がいるかもしれないが、
ぼくたちが修業した1980年代はもちろんのこと、
あとで知ることになるのだが、
ぼくが入局した1979年にはすでに真冬の冷え込みだった。
民放には日曜深夜枠の「NNNドキュメント」があるのみで、
昭和30年代「日本の素顔」に始まるNHKドキュメンタリーも、
1980年代の半ばには前述の「ぐるっと海道3万キロ」、
つまり紀行番組に身をやつすしかなかった。
ぼくたちは、
そういう時代に育ちながら、
「ドキュメンタリーを作ること」にこだわり続けた。
NHKにおいてさえ
ドキュメンタリーが経営陣に蛇蝎のごとく嫌われてきたのは、
その底に「反骨」を秘めているからではないか。
作り手がみんな反権力の闘士である、というのではない。
しかし、現場を見つめ、そこに暮らす人々の立場に立てば、
エライ人たちのいうことなど、そうそう従えるものではない。
だから、七沢も大森も、かくいうぼくも、
組織のなかでは「はみ出し者」と見做されている(ようだw)。
しかし、「はみ出し者」だったからこそ、
七沢や大森は上層部の指示を無視するかたちで、
福島第一原発から2.4kmの距離にまで突入取材を敢行した。
そして、彼らがそれをやらなければ、
大手メディアの原発報道は
「ただちに人体に影響を与える数字ではない」の
“大本営発表”を続けることになったはずだ。
なぜ指示を無視して屋内退避区域に入ったのかを問われた大森が、
「そこに人が住んでいるからだ」と答えたという話は、
仲間内では知られたエピソードだが、実に「らしい」言葉である。
ドキュメンタリーの冬の時代は続いている。
ぼくの経験的な感想を言えば、
政治部記者出身の会長が就任すると特に冷え込みが厳しく、
まつろわぬドキュメンタリー屋たちは必ず目の敵にされてきた。
政治家とのコネクションを重視する政治部記者の発想と
下から目線のドキュメンタリーは根本的に相容れないのだろう。
80年代後半の島桂次会長のときなど、
局内で「ドキュメンタリー」はほとんど「禁句」だった。
島会長の腰ぎんちゃく的な存在だった上司に
ぼくや七沢、大森など当時の若手ディレクターが呼びつけられ、
「おまえたちは問題意識で番組を作っているのか!?」
と難詰されたことをいまでも覚えている。
「問題意識がなくて番組など作りません」と答えたのだったか、
怒るよりも呆れて、情けなくなったものだ。
海老沢勝二会長の時代には、
本格的なドキュメンタリーを作る場が
現在の「ETV特集」くらいしかなくなってしまい、
ぼくたちは必然的にそこに「吹き溜まる」ことになった。
そして、
従軍慰安婦問題を扱った
「ETV2001」の番組改変事件が起きた。
放送寸前に番組をぶった切るという異例の改変が
自民党の政治家=政治部ラインの指示によるものだったことは、
当事者である永田浩三さんの本などでいまは明らかになっている。
ちなみに現在は武蔵大学教授の永田さんも、
同じ時期を「ぐるっと海道」で過ごした先輩である。
当時、「ETV特集」は毎年のように潰されそうになったが、
そのたびに賞を得るなどして生き延びてきた。
外部の評価があるので、潰すに潰せなくなった格好である。
「放射能汚染地図」もネットから火がついて、
大きな反響を巻き起こし、
TV界のほとんどの賞を総ナメにする高い評価を得た。
番組が評価を得たので、
当初は「お尋ね者扱いだった」(と大森はいう…w)
七沢や大森は免罪され、一転して「時の人」となった。
そして、ドキュメンタリーの最後の牙城(?)、
「ETV特集」は来年度も継続が決まっている。
放送文化研究所勤務の七沢に続いて、
大森、ぼくもETV班を離れたが、
はみ出し者の系譜を継ぐ?若手が多いので心配はしていない。
好著「ホットスポット」の底流には、
ドキュメンタリーの作り手として冬の時代を生きてきた
七沢や大森の矜恃と自負、
反骨と敢えていえばルサンチマンが流れている。
長年の「仲間」であるぼくには、それがよく判る。
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