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チヨ子婆ちゃんの「までい」な暮らし


福島県相馬市に
飯舘村の人たちだけが暮らす仮設住宅がある。
原発事故で避難をしてきた
164戸370人前後がここで生活している。
その多くが高齢者で、
中学生以下の子どもは10人しかいない。
ぼくたちは去年の秋からこの仮設住宅の撮影を始めた。

ここで知りあった一人がチヨ子婆ちゃん(84)。
仮設住宅の近くに畑を借りて、
毎日、電動三輪車で通って野菜を育てている。
生まれ故郷の飯舘で戦後開拓に入ったが、
生活は苦しく、
特攻隊の生き残りだった御主人(故人)は
現金収入を得るため出稼ぎにでた。
そのため、幼い子どもたちを背負って、
女手ひとつで開墾を成し遂げた経験の持ち主である。
働きづめに働いた一生だったと振り返るが、
原発事故で故郷を追われ、
仮設住宅に入って何もすることがなくなると、
かえって心身の調子を崩してしまったらしい。
そこで息子さんが畑を借りる段取りをして、
毎日畑に出るようになってすっかり元気を取り戻した。


この土地の言葉で「までい」というが、
「ていねいに」「心を込めた」というところだろうか。
チヨ子婆ちゃんの仕事ぶりは「までい」の一言に尽きる。
花の根元で膨らみ始めたばかりの
小さなキュウリを真っ直ぐに伸ばしてやるために、
炎天下で、邪魔になる葉っぱを一枚一枚取り除いてやる。
「暑い」というところを、
「あったかい」と表現するのも飯舘地方の方言らしい。
「今日はあったかいなあ」と繰り返しながら、
チヨ子婆ちゃんは日が沈んで暗くなるまで畑で過ごす。


先日、自分で育てたキュウリと大根を
JAに持ち込んで放射線を測定してもらった。
結果はともにND(検出限界値以下)で、
これで安心してひ孫たちに食べさせられると喜んだ。
家族では食べ切れないくらいの作物を作っているので、
仮設住宅の一角に野菜の自動販売機を置いて、
同じ飯舘から来た人たちにも
食べてもらおうと計画しているらしい。


きょうは日曜日とあって、
いつもは仕事の関係で
家族と離れて福島で生活している
息子の健一さんが飯舘村に帰って草刈りをしていた。
もともと村にいたときには、
和牛の繁殖を手がける牧場だった。
いつか除染が終わって村に帰れる日が来たら、
帰ってまた牛飼いをやるんだと健一さんはいう。
そのため、トラクターなどは、
いつでも使えるように整備を怠らない。
牧草地も刈り取ってきれいな状態に保っておく。
決して希望を失わない、「までい」な人たちである。


飯舘村でも最も放射線量が高い長泥地区は、
今度新たに「帰宅困難区域」に指定され、
17日午前0時をもって一般の立ち入りが禁止される。
長泥に向かう道路にはバリケードの準備が進んでいた。
長泥に家を持つ人たちは
鍵の暗証番号を教わって入ることが出来るというが、
いままでは防護服を着ることもなく、
自由に人が出入りしていたところである。
それどころか、
事故直後の放射線量が最も高かった時期には、
人々は避難を指示されることもないまま、
ここで普段通りに生活をしていたのである。
「計画的避難区域」に指定されたのが去年の4月で、
ようやく避難が始まったのは5月、
遅い人は7月上旬まで長泥で暮らしていた。
被ばくの心配をいうなら、
既にたっぷり被ばくをしてしまったはずである。
それを1年4ヶ月が経って、
ようやく放射線量が下がってきた頃になって、
「帰宅困難区域だから」とバリケードで封鎖する。
政府のやることは、形式ばかりで、実に頓珍漢である。




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