発言の内容に批判があるのは当然のことだろう。
しかし、議論が奇妙な方向にずれてきているのではないか。
きのう国会での論戦を聞きながら深刻な危機感を覚えた。
野党の一部の追及が
NHK会長が
「個人的な意見」を表明したことへの批判のように聞こえ、
それに対する会長の答弁が
放送法に規定する「公正中立」を連呼するものだったからだ。
個人的な見解は見解として
報道機関の長としては公正中立を遵守するという答弁を
批判する側が責めあぐねているようにも見えた。
問題は、
「個人的な意見」と「放送の公正中立」とが
あたかも対立する概念であるかのように語られたことである。
断言するが、これはメディアに対する認識不足である。
「個人的な意見」は、
「公正中立」と対立するどころか、
むしろ「公正中立」の前提となる概念だからだ。
「意見」というから誤解を生むのかも知れない。
「個人的な価値判断」と言い換えよう。
表明しようがするまいがそれは厳然として存在するし、
また、それがなければぼくたちの仕事は成立しない。
ジャーナリズムは「社会的システムの検証」を任務とする。
「検証」とは、
雑多で価値フリーな事実のなかから
何が「重要」で「本質的」かを見極める作業である。
そこには当然、価値判断が伴う。
そして価値判断の主体は、
客観性を幾重にも担保されるにせよ、
煎じ詰めれば「個人」ないし「個人の集合体」でしかない。
「組織の意思」などというものは存在しないからだ。
ぼくたちジャーナリズムの現場に身を置く人間は
「個人的な価値判断」を武器に、
社会的システムの問題点を洗い出そうとしている。
もし「個人的な価値判断」を徹底的に排除しようとすれば、
権力機構や企業、運動団体などから提供される情報を
批判を加えずにそのまま流すしかない。
それは「ジャーナリズム」とは呼ばない。
「広報」である。
もっと解りやすく説明を試みる。
例えば1分のストレート・ニュースなら、
「価値判断」を排除することはかなりの程度まで可能だ。
しかし、何を「ニュース」と判断するか、
どういう順で並べるのか(=何を重要とするか)は、
ニュースデスクの「個人的な価値判断」によるしかない。
組織から一定の権限を委譲された個人の「価値判断」である。
これが「番組」になると構図はもっと鮮明になる。
番組作りは多様で混沌とした現実のなかから、
「ストーリー」を見つけ出していく作業である。
ニュースは「ストーリー」がなくても成立するかもしれないが、
番組は例え5分の短いものであっても「ストーリー」を持つ。
当然、「ストーリー」を作るには素材の取捨選択が伴う。
情報をインプットすれば
自動的に「ストーリー」がアウトプットされるわけではない。
何かを選ぶということは「何かを捨てる」ことに他ならず、
それは制作者の「価値判断」を抜きにはあり得ない。
「番組」において取捨選択の判断は、
一義的には担当ディレクターが行なうしかない。
ぼくたちは「個人的な価値判断」を抜きにしては、
事実上、ただのワンカットすらつなげないのである。
ぼくはテレビ屋だから「番組」という言葉を使ったが、
活字メディアであれば「調査報道」ということになるのか。
いずれにせよ、
ジャーナリズムは
「個人的な価値判断」の積み重ねで成り立っており、
そういう意味では「個人的意見の表明」に他ならない。
だとするなら、「公正中立」とは何か。
「個人的な価値判断」が
どれだけ客観的な評価に耐え得るか、である。
Aという意見と対立するBという意見を
同じ比重で扱うのが「公正中立」ではない。
要は検証の過程が充分に誠実で客観的であるかどうかで、
権力の広報であってならないのはもちろんだが、
あらかじめ一定の立場に依拠した
アジビラのような「報道」であってもならない。
しかし、報道の客観性の程度は、
最終的に表現された番組や記事からは
ただちには伺い知ることができないことも少なくない。
ぼくが自分の「個人的な価値判断」を
ブログやtwitterのかたちで可能な限り公開し、
番組に対して批判的な書き込みも一切削除しないのは、
そういう人間が作ったものとして番組を見ることで
(ある程度バイアスがかかっているのは自明の前提で)
客観性を視聴者自身が判断する材料にして欲しいからだ。
メディアが
「依らしむべし、知らしむべからず」であった時代は、
インターネットの発達とともに終わりを告げた。
現代のメディアが「公正中立」であるためには、
価値判断の主体である「個人」を顕在化することで、
可能な限り双方向性を担保するしかないと考えている。
番組や記事が成立する基盤が
担当者の「個人的価値判断」にある以上、
もうひとつ重要になるのは、
メディアが
多種多様な言論の場として確保されているかどうかだ。
放送や新聞は
様々な見解がごった煮の百花斉放であることが望ましい。
右も左も切り捨てる「公正中立」ではなく、
右も左も包含した結果的「公正中立」を目指すべきである。
しかし、この国では、
「公正中立」は多くの場合、
「異論のあることには触れない」という意味になる。
(都知事選さなかの原発報道回避を思い起こして欲しい。)
ぼくが国会での議論に深い危機感を覚えたのは、
「公正中立」の名の下に推し進められてきたのは
「ジャーナリズムの広報機関化」に他ならないことを
体験的によく知っているからだ。
「公正中立」が叫ばれ、
「個人的な価値判断」を排除していくとするなら、
まず切り捨てられるのは
「権力に対する批判的なまなざし」である。
ぼくはかつて、
社会的なテーマを扱おうとすれば
幹部から「問題意識で番組を作るのか」と叱責された、
そんな時代があったことを記憶している。
他ならぬ安倍さんから
「公正中立にやって下さい」と言われたNHK幹部が、
その意向を「忖度」して、
従軍慰安婦問題を扱う番組を
放送直前に改変した事実も記憶している。
NHK会長や経営委員の発言が問題だとするなら、
追及すべきは個人的な発言をした事実ではなく、
発言の内容ですらない。
そうした「個人的な価値判断」をする人物ばかりを
報道機関の幹部として起用した側の任命責任のはずである。
この問題が逆に作用して、
メディアが「公正中立」の方向に自主規制するならば、
それは発言の是非よりも遙かに由々しい問題に違いない。
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