福島原発事故から4年目を迎えて、
被災者がいまどういう思いでどんな生活を送っているのか、
あらためて知りたいと考えたのである。
双葉町の自宅に半永久的に戻れなくなった人から
被ばくを避けようとして沖縄に避難した人まで、
生活も放射線に対する不安も様々に違う人たちと会った。
最も心を動かされたのは、
現状の放射線をそれほど危険視していない人も含めて、
全員が原発事故によって
それまでの人生を大きく捩じ曲げられていたことである。
原発事故の被害は「人の数だけある」と痛感した。
健康不安や財物の損傷だけが原発事故の問題ではない。
例え現在の放射線量では健康被害の怖れは小さいとしても、
それは「被害がなかった」ことを意味しないのである。
原発を推進してきた国や東電を免責するものでもない。
低線量被ばくの危険性をめぐる論議は
とかく「神学論争」(水掛け論)になりがちである。
永遠に交わることのない二本の平行線だ。
安全性(危険性)の議論ばかりをしていると
原発事故の本質を見落とすことにもなりそうだった。
ぼくは膨大な取材データを整理し、
自分なりの視座を固めたいと考えて、
釧路の自宅に一人こもって大型連休を過ごすことにした。
そこに飛び込んできたのが、
漫画「美味しんぼ」の鼻血問題だった。
ぼくが「美味しんぼ」に反応したのは、
自分の取材テーマに関わっていたのはもちろんだが、
原作者の雁屋哲さんをよく存じ上げていたからでもある。
雁屋さんとぼくは、
かつて7本もの番組を一緒に作っている。
人となりをよく知り、基本的には信頼をしている。
雁屋さんは執筆に際して現地取材を徹底的に行なう方で、
それは問題になった回の前半にある第一原発の視察や、
井戸川元双葉町長という
実在の人物が実名で登場することからも明らかだろう。
だから、ぼくは、
原発事故を背景にしたフィクションというより、
一種のセミ・ドキュメンタリーとしてこの作品を読んだ。
当初、ぼくは「福島で鼻血?」と怪訝に思い、
ネット上に引用されたページを見て
「これはちょっと…まずいんじゃないかな」と思った。
詳しい理由は後で書くが、
この漫画を読むことで強い不安感に苛まれ、
パニックすら起こしかねない福島の人たちの顔を、
具体的に、それも複数、即座に思い起こしたからである。
ほとんどデマに近い情報で
ある地域の人たちが連鎖パニック寸前になった状況を
かつて実際にこの目で見ていた。
もっとも、一部の批判にあるように、
この漫画を「デマ」だと決めつける気はぼくにはない。
雁屋さんが福島取材後に原因不明の鼻血を出したことも、
井戸川氏が福島には鼻血を出す人が多いと語ったことも、
おそらく事実だろうと考えるからだ。
かといって事実であれば何を書いてもいいかといえば、
そんなことはない。
ここからは、しばらくメディア論になる。
「美味しんぼ」をめぐる一連の議論をみていると、
低線量の被ばくには危険はないと考える人が批判し、
低線量といえ被ばくの危険性を重視する人が擁護している。
それは各々の立場を表明をしているに過ぎず、
ポジション・トークがぶつかりあっているだけだ。
「美味しんぼ」を論じているようで、実は論じていない。
メディアや表現というものに対する考察が
すっぽり抜け落ちてしまっているように思われる。
ぼくは敢えてそこを書いてみたいと思う。
長文になるが、よろしければおつきあいを願いたい。
原発報道をめぐっては
メディアに対する全く相反する批判がある。
ひとつは
メディアは原発事故の危険を正しく伝えなかったとの批判、
いまひとつは逆に危険性を煽ったという批判である。
おそらくふたつの批判はともに正しい。
開き直るわけではないが「メディア」とはそういうものだ。
先ほど、
事実であれば何を書いてもいいわけではない、と書いた。
一方で、(マス)メディアは、
科学的に実証されなければ伝えないということでもない。
被害が実証され、通説になるのを待っていたら、
公害報道などそもそも成立しない。
(原発事故も一種の公害問題だと考えるべきだと思う。)
つまり、ある事実を報道(表現)すべきかどうか、
メディアは個別のケースに則して検討をし、判断をする。
報道したときのメリット、
報道に伴うデメリット、
事実としてどこまで信頼が置けるかどうか、
その事実は個別事情なのか普遍的なものなのか、
実証されない時点で社会に問うだけの意味があるのか…
様々の要素を比較衡量してそのつど判断をする。
その判断には「正解」は用意されていない。
結果的に正しいこともあれば、
間違っていたことを歴史が証明することもある。
Twitterでも書いたが、
ぼくはそれを「メディアは塀の上を歩く」と表現する。
いつも微妙で危ういバランスの上で仕事をしているのだ。
メディアは、
とりわけテレビは、というべきかもしれないが、
災害時には表現が慎重ないし保守的になる傾向がある。
結果的にデマを流布してしまうことを怖れるからだ。
ぼくの経験からいっても、
大きな災害には必ずデマがつきまとう。
それは凄まじいまでのスピードで伝播し、
不安に駆られた人たちを非合理的な行動に走らせる。
つまり、深刻な二次災害にもつながりかねない。
デマはときに虐殺さえも生み出すという
不幸な歴史をぼくたちは知っているはずだ。
メディアが慎重になるのは理由のないことではない。
では、デマを防ぐためにはどうするか。
「確認されない情報は伝えない」ことである。
それでは、「確認」は誰によって行われるのか。
気象庁だったり警察だったり…
ほとんどの場合、行政官庁によって「確認」される。
行政当局が確認したことだけを報道するとすれば…
メディアは必然的に「広報」に近づいていく。
中継カメラがある事象を明確に捉えているのに、
確認がとれないためアナウンサーは一切伝えないという
まるでマンガのような事態さえ現実に起こることがある。
こうしたメディアが内包する問題点が顕在化したのが、
他ならぬ福島原発事故だった。
担当官庁…経産省や原子力委員会…は、
事故の当初から影響が拡大しないように
明確な意思を持って動いていたといっていいだろう。
そうしたとき「確認されない情報は伝えない」との姿勢は
結果として「住民に必要な情報を伝えない」ことになった。
原発事故という未曾有の事態を前に
メディアは限りなく「大本営発表」に近づいたのである。
その一方で、例えばNHKの「ETV特集」は、
3月14日の時点で
放射線防護の専門家・木村真三さんを招いて打ち合わせ、
翌15日から木村氏にも帯同してもらって福島に入った。
取材を担当したディレクターたちは、
組織の統制を半ば無視して
原発事故の現場の奥深くにまで入り込んでいった。
その結果、作られた番組が、
社会的に大きな反響を呼んだ
「ネットワークでつくる放射能汚染地図」である。
ぼくはこの番組を高く評価しているし、
高線量地帯である浪江町赤宇木に
それとは知らず避難していた人たちを
説得して避難させただけでも大きな社会的貢献だと思う。
しかし、その一方で、
統制違反、局内ルール違反だった側面は否めず、
内部からの批判が少なくなかったことも容易に想像できる。
つまり、「表現」とは、
メディア内部の試行錯誤のなかから
結果として生み出されたものでしかありえないのだ。
繰り返すが「正解」などない。
塀の上で危うくバランスをとりながら、
どちら側に落ちるか、落ちないですむのか…
生み出された表現を評価するのは結果論でしかない。
ここでようやく話が「美味しんぼ」に戻る。
判っていない方もいるようだから書いておくが、
雁屋さんは明らかに鼻血と放射線を結びつけている。
被ばくと鼻血を結びつける知見はないという医師の話は、
後半の展開においてひっくり返すための布石である。
表現に携わる人間から見れば、
それは間違いようもないことだ。
派手にぶち上げておいて後でウヤムヤにする
「マッチポンプ型」の表現もないわけではないが、
雁屋さんはそういうことをする人ではないので、
次週以降、鼻血と放射線被ばくの関係、
あるいは低線量被ばくの問題点が全面展開されるはずだ。
前にも書いたように、
様々な要素を比較衡量した結果が「表現」である。
雁屋さんは鼻血問題を通して
原発事故の被害を伝えるべきだと判断したからこそ、
今回の「美味しんぼ」の表現を選び取ったに違いない。
ぼくがこの表現を疑問に感じたのは、
つまり、雁屋さんとぼくで「判断が違う」ということだ。
以下にぼくの判断を書く。
まず「鼻血」については慎重に扱うべきだと考えている。
なぜなら、日本人の多くには、
広島・長崎の被ばく体験に端を発する
「放射能と鼻血」への恐怖が刷り込まれているからだ。
原爆で高線量の被ばくをした主人公が
鼻血を出したのをきっかけに死を迎える…
そうした映画や文学作品に触れた人は少なくないだろう。
「鼻血」と「放射能」は、
日本人の意識下において強く結びつけられている。
だから「鼻血」の事実は、
いまも不安のなかで暮らしている人たちのあいだに
パニック的な恐怖感を呼び起こすことになりかねない。
だから、「描くな」ではない。
描くなら幾重にも慎重であるべきだと考える。
福島で鼻血に悩む人が有意に増えているとすれば、
原因がはっきりしなくても「描く」判断はあり得る。
ぼくの判断の第2点はここに関わる。
果たして本当に福島で鼻血を出す人が増えているのか?
ぼくにはどうもそうは思えないのである。
3年間かなり福島を歩いたが、そうした話は知らない。
増えたというデータがあるとも聞いていない。
(「増えていない」というデータはあるらしい。)
雁屋さん自身が鼻血を出したという事実に加えて、
「井戸川氏が増えていると言った」というだけでは、
「鼻血が増えた」とする根拠として弱すぎないか。
雁屋さんが伝えたかったのが数の増加ではなく、
低線量被ばくでも鼻血が出ることはあり得る、
といった程度のことであれば、
いささかセンセーショナルな表現に過ぎるのではないか。
さて、最後にぼくの判断をもうひとつ。
ぼく自身は、
双葉郡などの一部の地域を除けば、
現在の放射線量には
それほど著しい危険はないだろうと考えている。
3年間、福島で取材を続けてきて、
様々な専門家の話を聞き、論文なども読んだ。
専門家といっても
被害の全貌が明らかになる前から
安全を叫んでいた人たちをぼくは信用していない。
環境中にばらまかれた放射性物質のリスクを
喫煙や野菜不足など自己責任に帰することのリスクと
意図的に混同しているとしか思えない
国や東電、一部の専門家の詭弁には怒りを感じさえする。
しかし、事故以来、
一貫して住民サイドに立って不安に寄り添いながら、
少しでもリスクを下げるべく
地道な努力を続けてきた専門家たちもいる。
そのほとんどが、
(ぼくの知る限りで言えば、全員が)
現状をそれほど深刻には見ていないという事実が
ぼくを安堵させる。
彼らがそういうのなら信用してもいいだろう、と。
そうした一人、
立命館大学名誉教授の安斎育郎さんは、
ボランティアのチームを組んで毎月福島を訪れる。
保育園や個人の住宅で、
実に細かく隅々までの線量を実測し、
場所ごとに一日に過ごす時間×線量を足し上げて、
年間の被ばく量を計算していく。
その結果、
放射線量が高かった福島市渡利地区などでも、
現在の推定被ばく量は
自然放射線の変動の幅に収まる程度だと判ってきた。
例えば、
ガラスバッチで実測もした
ある保育園の子どもたちの場合であれば、
追加被ばくは年間0.2〜0.3mSvの幅に収まっている。
安斎さんによれば、
「福島原発事故という巨大な不幸中の幸い」。
それでも「放射線は低ければ低いほどいい」から、
さらに被ばくのリスクを下げるため、
除染や遮へいのアドバイスを行なっている。
これがぼくの見ている「現在の福島」である。
雁屋さんが見た「福島」とはかなり違うようだ。
次号以降、
雁屋さんは雁屋さんの見た福島を
「美味しんぼ」に全面展開していくはずである。
そこには当然、
ぼくの知らない「判断の根拠」も提示されるだろう。
漫画を読む習慣をなくして久しいぼくだが、
こればかりは最後まで読まなければ、と思っている。
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