「福島に住んではいけない」のか?
ぼくは福島県の桑折町(こおりまち)を取材していた。
桑折町は福島県北西部に開けた農村地帯、
桃や林檎など果実の栽培が盛んな美しい郷だ。
原発事故の前は、
この町で採れた桃を
毎年天皇家に献上していたというのが自慢である。
いま桑折町では除染が始まっていて、
果樹園と境を接して仮置き場が作られ、
除染廃棄物を詰め込んだトン袋が並んでいる。
美しい田園風景と放射性廃棄物のコントラスト、
…原発事故がもたらした異様な光景である。
もっとも、
仮置き場の入口に掲示されている放射線量は、
その日の朝の数字で毎時0.13μSvである。
低いんだな、とぼくはちょっと意外に思った。
「毎時0.13μSv」がどの程度の線量かと言えば…
いま、ぼくの手もとに
日本地質学会の今井登氏による放射線地図がある。
大地からの自然放射線量を計算したもので、
福島原発事故の影響は見込まれていない。
一般に東日本より西日本の方が
自然放射線の量が多いことが知られているが、
この地図上に赤で表示されている
「毎時0.127μSv以上」の地域のなかには
岐阜県や愛知県、広島県などの一部が含まれる。
福島県の場合、
原発事故前の自然放射線量は
毎時0.04μSvと言われているので、
それに比べれば高くなっているのだが、
桑折町の空間線量は
周辺より高いと思われる仮置き場でも
「せいぜい名古屋と同じくらい」ということになる。
名古屋に出張するとき
被ばくのリスクに怯える人はいないはずで、
桑折町の現状での放射能汚染が
健康に大きな影響を与えるとはとても思えない。
ぼくたちは仮置き場に隣接する果樹園で
林檎の摘果をする御夫婦を撮影していたのだが、
70代半ばを過ぎた御主人が突然、
「あの小学館の話は…」と言い出した。
「福島に住んではいけない」との表現が問題視され、
大きなニュースになった「美味しんぼ」のことである。
その漫画を読んだわけではないが、
(学習雑誌を発行している)小学館のような会社が
なんでそんなことを書くのか自分には理解できないと、
温厚そうな老人はやり切れなさそうな顔をした。
老人の「やり切れなさ」には理由がある。
去年の夏は桃が高値の滑り出しを見せ、
原発事故の痛手からようやく回復するかと
関係者は期待を膨らませていた。
それが8月7日、
福島第一原発から1日300tの汚染水が
海に流出しているとの試算を経産省が公表、
翌8日に
政府が汚染水放流を検討していることが報道されると、
9日から桃の価格は一気に暴落。
農家は収穫作業の労賃も払えないほどの打撃を被った。
地図を開いていただきたい。
桑折町は福島市の北、宮城県側に位置し、
福島第一原発からは60キロ近く離れている。
それも海からは遠く離れた、内陸の町である。
常識的に考えて、
原発からの地下水が桑折の桃を汚染することなど
あり得ないと言っていい。
しかし、それでも桃の価格は暴落した。
「福島」の二文字が禍いしたとしか考えられない。
いわゆる「風評被害」である。
月曜日発売のビッグコミック・スピリッツで
「美味しんぼ」の続編を読んでぼくは暗澹としていた。
前回のブログに書いたように、
(原作者の)雁屋哲さんが
低線量被ばくの危険性を強調するだろうことは
ストーリーの流れから当然のこととして想定していた。
しかし、
まさか「福島に住んではいけない」とまで書くとは…。
鼻血が低線量被ばくの結果だと考える専門家は
数は少ないが確かに存在する。
「美味しんぼ」に登場する
岐阜環境医学研究所の松井英介所長も
ぼくは存じ上げないがその一人なのだろう。
表現とは多数決によって決めるものではないから、
少数説に依拠した表現がそれ自体問題とは言えない。
しかし、そこから一気に
「福島に住んではいけない」までいくのは、
いくらなんでも短絡に過ぎる。
敢えていうなら、荒唐無稽な主張である。
そもそも県境などというものは
人間が大地に勝手に線を引いただけの話である。
放射性物質が県境の外には飛散しない、
などという話があるはずもない。
それゆえ「福島」と限定した瞬間に、
その論は科学的思考とは無縁のナンセンスとなる。
放射線量から言えば、
福島県桑折町に「住んではいけない」のなら、
当然、名古屋にも「住んではいけない」はずである。
さらに言えば、
「福島」には原発事故の影響をほとんど受けていない、
例えば会津のようなところもある。
会津に「住んではいけない」のなら、
京都や大阪はもちろん、東京にも住めないことになる。
雁屋さんの意図が
原発事故の責任をとろうとしない
国や東電の断罪にあるのは明らかだが、
井戸川氏の多分に感情的な主張に乗るかたちで
「福島に住んではいけない」と書いた瞬間、
それでなくても不安のなかで生き、
謂われなき風評被害に苦しんでいる
福島県民を益々苦しめることになってしまう。
雁屋さんの本意ではないだろうし、
全くの「誤爆」だと言わざるを得ない。
雁屋さんに限ったことではないが、
原発の危険性を論拠にした反原発論は、
「健康被害はそれほど深刻ではない」という話を
はなから受けつけようとしない傾向がある。
まるで福島は「危険でなければならない」かのように。
これは言うまでもなく倒錯である。
健康被害が憂慮されていたほどではないとすれば、
反原発派ほど、そのことを素直に喜ぶべきではないか。
健康被害の有無と原発の是非は
一度切り離して考えた方がいいように思う。
例え福島で顕著な健康被害が現われなかったとしても、
原発事故が数え切れない人たちの営みを破壊し、
平穏な人生を奪ってきたという事実は変わらない。
原発を推進してきた国や東電が免責されるわけでもない。
避難している人たちが帰還を迫られたり、
除染を打ち切ったりすることが許されるはずもない。
福島原発事故は
多くの人たちの人生を捩じ曲げた苛酷な体験だった。
低線量被ばくの健康被害があろうとなかろうと、
再び原発を推進していいと考える理由は
どこにもないとぼくは確信している。
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