ジャーナリズムの現場にいる者のはしくれとして、
ぼくは今回の後藤健二さんの問題を無視はできない。
後藤さんたちの命をあたかも生贄に捧げるようなかたちで
日本の国を危険な方向に導こうとする目論見を座視し得ない。
しかし、その一方で、
ぼくはぼくの「ジャーナリストとしての現場」を持っている。
きょうはそのことについて書く。
東日本大震災と福島原発事故の発生以来、
ぼくは圧倒的に多くの時間を被災地、
とりわけ福島での取材に費やしてきた。
特に南相馬や楢葉など、
住民が避難するか否かの境界領域がぼくの主戦場だった。
心がけてきたのは、
「福島は安全=心配するのは放射脳」
「福島は危険=人が住んではいけない」
そうした両極の意見にともに与しないことであった。
極論は言わば「絶対的な正義」の主張である。
互いに己の正当性を声高に主張し、
両者のあいだには会話が成立しない。
しかし、現実には、
圧倒的に多くの人たちが、
二つの極論のあいだで引き裂かれながら、
苦悩と不安のなかで現在も生活を続けている。
(福島に残った人も避難した人も、である。)
ぼくはそうした人たちの「現場」に寄り添うことを
ジャーナリストとしての自分の責務としてきた。
その点、命の危険に晒される修羅場ではないにせよ、
後藤健二さんの立ち位置と一脈通じるものはあるだろう。
去年6月に東京勤務に戻って以来、
ぼくが通い詰めているのが楢葉町である。
楢葉は福島第一原発から20km圏の避難指示区域内にあって、
全町避難を続けている自治体のなかでは最も放射線量が低い町だ。
去年3月のデータで、全町平均の放射線量は0.38μSv/h。
この数字は
現に住民が生活している福島県の中通りとさほど変わらない。
だから、国は早い時期での帰還を推し進めようとしている。
楢葉町では、この春、
住民の帰還の時期をいつにするか決めるとしているが、
住民のあいだには慎重論が根強い。
放射線量が下がったといっても、
まだまだホットスポット的に高い線量の場所が残る。
当然、住民の不安は拭い難いが、それだけの話でもない。
逆説的な言い方になるが、
「人は放射線量によってのみ生きるに非ず」。
年間数mSv程度の被ばくであれば
避難生活によるストレスの方が健康リスクが大きいとは、
「放射線安全派」のよく口にするところである。
一面の真実ではあると思うが、
逆に言えば、
放射線が低くなったからといって
帰れるとは限らないということでもある。
原発事故が奪ったものは「安心・安全」だけではない。
ぼくは取材を進めるなかで、
3年半も空白となっていたコミュニティに
住民が戻るのは容易なことではないのを痛感させられた。
物理的に言えば家は傷み、野生動物たちが席巻するに任せている。
(地震で破損されたまま放置されている家)
さらに除染や家屋の修理・解体に伴うゴミが、
持って行き場のないままに仮置場に積み上げられている。
生計を立てる場であったはずの田畑が仮置場に変わり、
その面積はいまも拡大の一途をたどっている。
この仮置場が解消されるまであと何年かかるのか、
その展望は開けないままだ。
(かつての田畑に拡大するばかりの仮置場)
それだけではない。
コミュニティをコミュニティならしめている“歴史”や
有形無形の様々な“絆”が寸断されているのである。
「証拠」がないので番組では言及しなかったが、
国が帰還を急ぐ背景には補償金の問題があるとぼくは睨んでいる。
避難者には一月10万円の「慰謝料」が東電から支払われている。
楢葉町民は7500人だから、毎月7億5000万円になる。
避難指示が解除となれば、
住民が戻ろうと戻るまいと
一定の期間を置いて慰謝料は打ち切られる。
膨大な賠償が経営を圧迫している東電にとっても、
東電に際限なく資金を注ぎ込んでいる国にとっても、
避難指示の解除を急ぎたい理由があるということだ。
もちろん、住民のあいだにも一刻も早く帰りたいとする声がある。
とりわけ先の短い高齢者にとっては
ふるさとに帰りたいという思いは切実である。
様々な思いと思惑が交錯するなかで、
初めての「全町帰還」が始まろうとしている。
しかし、それは決して平担な道ではないだろう。
これは原発事故による全町避難、
そして空白期間を経てのコミュニティ再建という
未曽有の体験をすることになった楢葉の人たちの記録、
その「序章」にあたる番組である。
一年後には定年を迎えるぼくが
どこまで彼らと併走できるかは判らない。
やれるところまではやるつもりでいるのだが…。
ETV特集
住民帰還
〜福島・楢葉町 模索の日々〜
2月7日(土)23:00〜 Eテレ(59分番組)
ぜひ、ご覧ください。
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