都内で放射線関係の会議を撮影した。
その仕事のあいだだけは忘れていることができたが、
それ以外は終日、鬱々として気が晴れないままに過ごした。
理由はいうまでもない、パリで起きた「同時多発テロ」である。
もちろん、たくさんの方が亡くなったのは痛ましいことだ。
だが、それ以上に、
「これは戦争だ」という気持ちがつきまとっていて、
ある種のやりきれない悲しみが心に深く突き刺さっていた。
それは、今年の始め、
後藤健二さんが殺されたときに抱いた感情に近い。
どうやらテロを仕掛けたのは(予想されたことだが)ISらしい。
フランスのオランド大統領は
「われわれは戦争に直面している」と言ったらしいが、
その認識はたぶん正しく、
その“正しさ”がぼくをやりきれない気持ちにさせている。
かつてチャップリンは「殺人狂時代」(’47)において、
一人を殺せば殺人者だが、
(戦争で)たくさんの人たちを殺せば英雄だ、と言った。
同じように、
「テロ」と呼べばそれは「犯罪」だが、
これが「戦争」であるなら
多くの人を殺したことは「戦果」に他ならない。
オランドが言うように
これがISとの「戦争」だとすれば、
殺戮は当然予想される結果であり、ISなりの「正義」である。
こう書いたからといって、
ぼくがISを支持し、その行為を肯定しているわけではない。
しかし、「これは戦争だ」というリアルな認識は必要だと思う。
「戦争」という概念の実態が、
近代国家同士の争いだった時代とはかけ離れているのである。
後藤さんの死に際して、
ぼくはブログに次のように書いた。
「ぼくが『悲しい』理由は、
たぶんこれが『戦争』だと認識しているからだ。
『戦争』は必然的に多くの人たちの『死』を意味する。
銃弾に当たっての死であろうと、
無差別爆撃による死だろうと、
あるいはナイフで首を掻き切られての死だろうと、
それが残虐な『死』であることには何の変わりもない。
だから、戦争だけは絶対に避けなければならないのだが、
ぼくたちはどうやら
『対テロ戦争』という名の戦争に巻き込まれてしまったらしい」
「悲しみの果てに、
ぼくはなぜか『憲法9条』のことを考えた。
…(略)…
憲法9条は、
『国際紛争を解決する手段』として
『武力の行使ないし武力による威嚇』を禁じている。
それは一見非現実的な理想主義に見えて、
この世には『絶対の正義』など存在しないという
極めてリアリスティックな認識に基づいているのではないか。
かつての日本が起こした戦争もまた、
主観的には『自衛』に基づいたものだった。
その結果、自国民はもとより、
『敵国』とされた国の人々、アジアの民衆を多く傷つけた。
その誤ちを繰り返さないために、
人殺しを正当化できるほどの『正義』はないと胸に刻んだ。
その痛切な理想に、ぼくたちはもう一度立ち返るべきだと思う」
ぼくがこう書いた後、
安倍政権が安保法制で全く逆の方向に舵を切ったことは、
ここで改めて書くまでもないだろう。
憲法9条を有名無実化して、
アメリカとの同盟関係を強化する方向をぼくたちの国は選択した。
しかし、
それはもはや時代遅れの「戦争観」に基づく選択ではなかったか。
別の日のブログでぼくはこうも書いた。
「現実には『アメリカの喧嘩の助っ人を買って出る』ことは、
本来日本の敵ではなかったはずの国や勢力を敵に回すわけで、
安全保障上のリスクを増やす結果にしかならない」
「勢力」という言葉を使っていることからも明らかな通り、
ISなどの所謂「テロ集団」を念頭に置いて書いた文章である。
アメリカの中東政策は数十年にわたって深刻な失敗を繰り返し、
アルカイダやISなどの“鬼っ子”を生み出すことで、
もはや修復不可能なまでの混沌に世界を叩き込んでしまった。
そうした歴史を検証することなく、
「対テロ戦争」という名の「アメリカの正義」に加担することは、
日本の安全保障上極めて危険だとぼくは一貫して危惧していた。
その危惧がピント外れでなかったことが、
今回のフランスの痛ましい事件で実証されたのではないか。
自分の見通しが正しかったと、
わざわざそんなことを言うためにこの文章を書いているのではない。
見通しが間違っていなかったらしいことが、
ひどく辛く、「悲しい」というのが偽らざる現在の気持ちである。
世界が憎しみの連鎖に向かって突き進んでいて、
それに歯止めをかける力がちっぽけな自分にあるはずもなく、
のみならず他ならぬ自分の国が間違った方向に進もうとしている。
判っていて止められないのは「悲しみ」以外の何物でもない。
もう一度、ぼくが信じるところを書く。
「正義の戦争」などはない。
「アメリカの戦争」も「ISの戦争」も
どちらも暴力による「正義」の強制である点で間違っている。
だから、いずれか一方の「戦争」に加担すること自体が誤りだ。
もちろん、
自国の「正義」を戦争で実現しようとすることも誤りである。
「あらゆる戦争に反対する」ことが、
観念論・理想論に見えて、
実はリアリスティックな認識に基づく現実的な姿勢なのである。
フランスの悲劇は、
憎しみの連鎖をどうすれば断ち切ることができるかという
重い課題をぼくたちに突きつけた。
少なくとも、暴力による報復は事態をこじらせるだけだ。
(それはアメリカの失敗の歴史が証明している。)
「止められない」ものを「止める」ために自分に何ができるのか、
「悲しみ」を超えて模索しなければならないと思う。
そう思いながら、
それでもやっぱり起きてしまった現実を前に
どうしようもない無力感に打ちひしがれているのである。
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