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愛と認識との出発 倉田百三さん



わたしが高校生の頃に好きだった倉田百三さんについて紹介したいと思います

倉田百三さんは大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家です



代表作に『出家とその弟子』があり、親鸞とその弟子唯円を描いた戯曲です

このお二人を通して倉田さんご自身の悩みや迷いを描いた作品なのでしょう

倉田さんには『愛と認識との出発』という評論集があり、かつての学生らに多大な影響を与えたそうです

この作品の中に日本の独創的な哲学者である西田幾多郎さんの「善の研究」という書物のと出会いのシーンが描かれてあり、何とも印象的でしたので、ブログ読者さんにも紹介したいと思いますので、以下に抜粋してみます


「 私は実際苦悶した。私はどうして生きていいか解らなくなった。ただ腑の抜けた蛙のように茫然として生きてるばかりだった。

私の内部動乱は私を学校などへ行かせなかった。私はぼんやりしてはよく郊外へ出た。そして足に任せてただむやみに歩いては帰った。それがいちばん生きやすい方法であった。もとより勉強も何もできなかった。

 ある日、私はあてなきさまよいの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買ってきた。その著者の名は私には全く未知であったけれど、その著書の名は妙に私を惹きつける力があった。

 それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
 見よ!

 個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来た。

 とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することができた!? この数文字が私の網膜に焦げつくほどに強く映った。

 私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸がいっぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。

私は書物を閉じて机の前にじっと坐っていた。涙がひとりでに頬を伝わった。」


いかがでしょうか?それほどの本ならと「善の研究」を読んでみたくなりますよね

実際に高校生の私も西田幾多郎の「善の研究」を読んでみたのですが、たいへん難解な書物で、一回目を通しただけでは意味がほとんどわかりませんでした

大雑把に言ってしまうと、自分という個人が存在していて、その私が物事を経験すると考えがちですが、実はそうではなくて、経験が先にあって、その経験を分析した時に、私や対象である世界が分かれてくるというお話です

倉田さんはこれによって個人主義的な考えから脱することが出来たとして感動されたわけですね

倉田さんの「愛と認識との出発」は現在インターネットの青空文庫で無料で読むことが出来ます

上記の題をクリックすると飛んで行って読むことが出来ます

ちなみに西田幾多郎さんの「善の研究」も青空文庫にありますので、無料で読むことが出来ます

ただしかなり難しい内容ですので時間のある時に読まれるといいでしょう

ちなみに倉田さんは神経症を患い、森田正馬さんというお医者さんに出会われるのですが、この森田さんの著書を、そうとは知らずに面白いので高校時代に読んでいたことがありました

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