群れる日本人
日本を離れて4年余り。たまに一時帰国したり、日本からの来客時は別とすれば、この4年間、日常生活で日本人と顔を合わせたり、まとまった日本語の会話をすることなく生活してきました。息子は日本国籍があるので間違いなく日本人。日本語も忘れてはいないけれど、まだ12才だし、父と息子ということもあって、そんなにしょっちゅう喋るわけでもありません。
だからと言って、それが苦痛とは感じないし、ネット経由での日本語コミュニケーションは、このブログを始めとして、フェイスブックにツィッターで十分。日本の家族から時々メールも来ます。むしろ私には程よい距離感で、疎ましくなったらスマホやパソコンを見なければいいだけ。場合によってはブロックという手段もある。
そんな環境に身を置いて、日本や日本人全般を外から眺めて考えるに、どうも日本人というのは、組織を運営していくのが致命的に下手クソなんじゃないかと思えてきました。
特にそれを顕著に感じるのが、非営利団体。具体的には、隣近所やマンションなどの自治会、PTA。私がかつて所属していた、カトリック教会の信徒会とか、アマチュアコーラスグループなんてのも。もっと自然発生的なママ友の集まり等も、入るかもしれません。
同好の士や、偶然知り合った気が合う者同士が、数人集まってるうちは平和なのに、5人10人となり、リーダーを決めたり、責任を分担をするようなレベルになると、なぜか強烈な同調圧力が生じます。最近の言い方だと「空気を読む・読まない」というヤツ。別に誰がルールを決めたわけでなくても、グループ内だけで通用する、変なタブーができてしまう。
これが勤め先だったら、それも給料分と諦めて、多少の居心地の悪さも我慢するのも、分からないではありません。しかしながら当然限度もあって、自分で自分を精神的に追い込んでしまうのはやり過ぎ。最近の日本でようやく問題視するようになった、過重労動や過労死は、そんなところに原因があるのは、経験的に間違いないと思います。
ところが仕事と違って、そこから離れても、ただちに生活に困るという事情はないはずなのに、仲間はずれにされたり、グループから除外されたらもう生きていけない、みたいな錯覚を起こす人が、どうも日本人には少なくないようです。
そして海外に住むと、一度は耳にするのが「日本人会」。数十人から百人以上の日本人が同じ地域に住む場所には、たいていあるみたいですね。国によっては、生活そのものに危険があって、互助組織を作らないと暮らしていけないケースもあるかも知れません。日本人でなくても、チャイナタウンやコリアンタウンのように、同じ民族が集まって住むエリアができるのは、それほど珍しくはない。
ただ、私が知る限りでは、日本人が海外でこの手の組織を作ると、まったく合理性のないヒエラルキーができてしまうようです。分かりやすい例だと、一番エラいのが、大使館・領事館などの日本政府関係者で、次が商社や金融機関勤務者、その下がメーカー勤めになり、さらに下が現地雇用の日本人。私のような無職の移住者は、埒外ということに。
少し前のことながら、私がご本人から直接聞いた話。マニラ首都圏に住む日本人の女性が集まって、地元のお客さんに集まってもらう機会に、コーラスを披露しようとなった時のこと。日本人を代表しての発表なので、恥ずかしい歌は聴かせられないと、音程が外れる人や、事情があって時間通りに集まれない人を、みんなで糾弾するような雰囲気になってしまったんだとか。私にその話をしてくれた人は、慣れないフィリピン暮らしも相まって、とうとう鬱病に。
本来、娯楽や息抜きのための集まりであっても、人数が増えるとお互いが行動を監視し合って、少しでもそこから外れる人を「グループの趣旨にそぐわない」「他のメンバーの迷惑になる」とか言い出してしまう。これってスポーツをナントカ道と呼んで、精神修養の場にしないと気が済まない、日本人独特のメンタリティも関係している気がします。(当然ながら、例外もたくさんありますよ。)
そんな訳なので、どちらかと言うと、他人と同じことをしたくないヘソ曲がりな私は、ここネグロスにもある日本人会とは一切の接触をしていません。この会がどんな人の集まりで、どんな活動をしているのかも、まったく知らない。なので、会の良し悪しも分かりません。
もちろん、日本人の顔を見たくないのではなく、何人かのフィリピン在留邦人の方々とは、家族ぐるみのお付合いをさせてもらってます。私としては、それで十分だし、退職して海外移住までして、なぜ余計な気を使い、ストレスを溜めてまで、日本人(特に気難しい高齢者)同士で群れたがるか、さっぱり理解できません。
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