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終戦記念日に思うこと マバラカット飛行場


今年も8月15日が巡ってきます。太平洋戦争中、50万人以上の日本人と100万人を超える現地人戦没者を出してしまったフィリピン。ここネグロス島も、マニラ市街戦、レイテ沖海戦に次ぐ激戦地だったそうで、8000人もの日本兵が亡くなりました。フィリピンに住む日本人としては、毎年いろいろと考え込んでしまう時期。今回は、2回に渡って終戦記念日に思うことを投稿しようと思います。


フィリピン・ルソン島、首都マニラから北西約60kmに位置する、東マバラカット飛行場跡。戦争末期の1944年(昭和19年)10月、ここから最初の特攻機が飛び立ちました。その後の3ヶ月間、当地にあった全機体が失われるまで特攻は続けられ、約700名のパイロットが体当たり攻撃で命を落としたそうです。

その後マバラカットは、1947年のアメリカ・フィリピン両政府間で合意された軍事基地協定により、クラーク空軍基地の主要飛行場の一つとしてアメリカ軍に使用され、1975年までのベトナム戦争中には一大軍事拠点でした。

1991年、基地から20kmのピナツボ火山の大噴火で、マバラカットを含む基地周辺は火砕流に埋まり、冷戦終了という世界情勢の変化もあって、クラークはフィリピンに返還。

そして2004年、このマバラカット飛行場跡に、地元の歴史家ダニエル・ディゾン氏の発意で、特攻隊員の像が建立されました。これは1974年に同地に置かれ、噴火で埋没した記念碑に置きかわるもの。フィリピンでの日本兵の残虐行為を目の当たりにしたはずのディゾン氏が、どうしてこれを思い立ったのか、私にはよく分かりません。それでも日本の関係者からの協力もあり、この像の完成以降、かなりの数の日本人がマバラカットを訪れているようです。



像がある敷地内の日本語の碑文には、こうあります。

「マバラカット観光局が神風平和記念公園の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を賞賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて、世界の人々に平和と友好の尊さを訴える為であります。」

フィリピンに特攻隊関連の記念物を設置するならば、これ以外の理由はないだろうと思うし、国籍に関係なく、すべての戦没者を慰霊する場とすることに、何の異論もありません。

ところが、像そのものや、背景にフィリピン国旗と並んで刻まれた旭日旗のレリーフ、入り口付近の看板の意匠を見ると、私にはどうしても、平和祈念や戦没者の慰霊という意図が感じられない。だいたい看板に使われている「神風」「Kamikaze」の書体からして、まるで安物の商業施設。



マバラカットに関するいくつかの英語の記事を読むと、フィリピンでは、碑文を額面通りに受け入れられない人の方が多数派のようで、肉親を日本兵に殺害された地元住民や、フィリピン大学の教授などからも、像設置への反対意見が寄せらています。

参考:ABS-CBN News / INQUIRER NET / the japan times

同様に多くの特攻機が飛び立った、鹿児島県の知覧にある知覧特攻平和会館と比べると、マバラカットの施設全体のデザインが、いかに配慮に欠けたものかというのが、よく分かります。これでは日本からの観光客集めが目的だと言われても仕方がない。

私は、特攻隊に関して、隊員たちが家族に送った遺書や、生き残った関係者の証言など、若い頃からたくさんの本を読んできました。また関連したテレビのドキュメンタリー番組も、気がつけば必ず視聴。二十歳前後で家族や愛する人たちを残して、死地に赴いたパイロットたちの無念さを思うと、決して彼らのことを忘れてはならないと感じています。

それだけに、現状のマバラカット施設の体裁は、残念でなりません。誤解してほしくないのは、特攻隊員の慰霊と平和祈願のために、何らかの記念碑や公園を作り、そこに参拝すること自体を否定する気は、まったくないということ。だからこそマバラカットが、日本人だけでなく、あらゆる国の人々にこの悲劇の実態を知らしめ、平和について静かに思索できる場所になってほしいのです。

次回に続きます。


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