生命について
僕の義実家では猫が4匹もいるのですが、どの猫も拾われたり、救出された猫だったりと購入された猫というのが1匹もいません。
僕は犬よりも猫派なのですが、なかなか世の中自分中心には回っておらず、猫アレルギーです。
さて、本日お昼から雨が上がり夕方には気温が16度位になって、さすがに長袖一枚では過ごせないほど冷えたのですが、窓を少し空けていると外から子猫の鳴き声が聞こえてくるのです。
一昔前の僕ならきっと聴こえぬフリをし、目を背け、面倒事に首を突っ込むことはしなかったのですがら、どうも義家族と一緒に過ごす時間が増えてくると動物好きになっているのか、すぐさま保護せなあかん!と妻と探し回ったんですね。
今までこんなことをしてこなかった自分がどうしてこんな面倒なことに奔走していて、しかもそれがナチュラルにしてしまっているのか?を考えてみたんですが、そこでタイトルの生命について、です。
雨が止んでいるとは言え、気温も低く、もし弱っていたら時間の問題なのかもしれない。と僕らは走り回ったのですが、見つける事が出来ず、鳴き声は移動していたのでら逃げ回っているということは元気だからだろうといつのまにか集まった「子猫捜索隊」6.7人は解散することになりました。
走り回ってお腹が空いた僕らは夕食をとりながら話をしました。
いつのまにか僕が猫や犬な興味関心を持ち始めたこと、その理由と猫の保護について。
猫を保護することと見殺しにすることは自分にとってはとても小さな事なのに、結果は大きく違う事。その気紛れで救える命ならば救うべきで、避妊手術などを施し、野良の猫が増えないように活動することも出来るし、猫の里親を探すことも出来る。
猫からすればどう思っているかは分かりません。ただの人間のエゴで愛玩として飼育されるのはどうなんだろう?と考えることはあります。
僕はペットという概念が嫌いです。命に勝手に値札を貼る行為、そして、ペットとして売買された犬や猫はどう思っているかもわからないのに、勝手に躾けて、勝手に餌をやり、勝手におもちゃにされ、勝手に避妊させられ、勝手に生涯を購入者の家で過ごさざるを得ない。どうもこれだけはエゴからしか生まれていないビジネスにしか見えないんです。
飼い主はいつもペットの幸せを願います。でも意思疎通が取れないのにどうして幸せだと分かるのでしょう?
僕には犬語も猫語も蛇語(パーセルマウス)もわかりません。だから、ペットは飼わない。妻と一緒に来たポメラニアン以外は飼わないと強く思う思うわけです。
そんな話を妻としながら、僕らはペット以外の動物の命、今回は牛を食べ生きていく、命を頂くことを意識し生きていくべきなんだと思った次第です。
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