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日本放送協会の「原罪」

札幌のホテルで、今夜のETV特集「戦争とラジオ(1)放送は国民に何を伝えたのか」を見た。
戦争中の、「国策」を国民に伝えることを使命として疑わなかったNHKの姿を
禁欲的なまでに(事実のみに即して)淡々と描いた番組である。
象徴的だが、
ラジオは「報道」ではなく「報導」であるべきだという、当時の担当者の使命感に燃えた声なども伝えられていた。
同盟通信(現在の共同通信)が出稿した客観的な原稿を、
国民を「報導」する意図で書き換えたのだろう、
戦意を鼓舞する方向に手書きの文字で修正を加えた放送原稿なども紹介されていた。

放送は、扇動的、扇情的であった方が効果を発揮する。
それはラジオからテレビになった現在なおさら加速している。
報道に携わるものが自ら手を縛らない限り、
国民感情を意図的にある方向に誘導することは可能なのである。

戦時中は、
極めて意識的に、国家の忠実な下僕として戦争遂行の意図の下に「報導」が行われていた。
もちろん、ぼくたちは既に「知っていた」ことである。
しかし、あらためて事実を物証とともに突きつけられると強烈だ。
これは放送メディアの「原罪」とでもいうべきものであり、当事者としては胃が痛む思いで番組を見た。
戦後、メディアが「原罪」をきちんと検証し、
反省を本当に自分のものとしてこなかったことが、いま問われている。
そして、それはむろん「日本放送協会」だけの話ではない。

もう何年も前(小泉さんの時代)のことになるが、
イラクで日本の大使館員が射殺されたときのニュースで、
フジテレビの女性アナウンサーが
「平和のために尽くして倒れた日本人がいたことを私たちは決して忘れてはなりません」とコメントした。
ラーメン屋で見るともなくニュースを見ていたぼくは、
まるで季節外れに幽霊に出会ったような気分で、思わず「大本営発表かよ」と呟いたことをよく憶えている。
いうまでもなく、
アメリカに協力してイラクに「出兵」することには様々な議論があって、
それをこのように「(情緒的に)美化する」のは、如何にフジ=サンケイ・グループとはいえ程度が悪すぎる。
アナウンサーのアドリブではあり得ない以上(ワイドショーではなく、ストレート・ニュースだった)、
デスクか管理職が原稿に件の一言を付け加えたのは明らかである。
今夜の番組で紹介された戦時中の原稿加筆のケースとそっくりだったので、思い出してしまった。
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