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昨日の日記でも書いたが、
原口総務大臣ら民主党議員の大手マスコミに対する批判が激しさを増している。
検察の情報操作に踊らされているというものだ。
確かに、密室で取り調べを受けている石川議員の供述内容など検察以外に情報の出所があるはずもない。
石川議員の弁護士からウラを取っているならともかく、
弁護士が否定している内容をあたかも「事実」であるかのように書くのは問題だろう。
検察が自分に都合の悪い情報を出すはずがないから、
意識するしないに拘わらず、
マスコミがある思惑の下に行われる情報操作(世論操作)の一翼を担うことになってしまう。

民主党・小沢幹事長の資金疑惑に関しては、
去年、検察は西松建設がらみの問題を立件しようと秘書の逮捕まで行ったが、
結局、形式犯以上の何ものも引き出せず、追及の手は小沢に届くことなく終わった。
云わば、一敗地にまみれた格好である。
今回はその復讐戦…
というより、ここで小沢を追い落とせなければ、検察自体が計り知れないダメージを受けることになる。
西松問題について検察は当時の政権党である自民党の意を体して動いた側面があるだろうし、
もし事実がそうではなかったとしても、
小沢はそのように受け取っているはずだから、当然、苛烈な報復が予想される。
だから、検察首脳は、自らの生き残りを賭けて小沢の政治的抹殺にかかっているのである。
…と、ここまでは、何ひとつ取材をしていないぼくでも簡単に読み解ける図式である。

問題なのは、
こうした図式は百も承知のはずの大手マスコミが、なぜ見え見えのリークに踊らされるか、だ。
朝日は今朝の天声人語で次のように書いた。

民主党内に渦巻く『反検察』の熱にも、同じ違和感を覚える▼検察がマスコミを通じて世論を操っている との不信からか、捜査情報の漏れを追及するチームをつくるという。石川衆院議員の逮捕にも『不当』の 声がある。糾明すべきこと、頑張りどころを間違えていないか。これでは捜査への嫌がらせである▼時の 政権が党利党略で横やりを入れては、司直の正義は保てない」

一見もっともらしい文章だが、
石川議員の逮捕が「不当」だと主張することが、
なぜ「糾明すべきこと…を間違えていないか」ということになるのか、ぼくには理解不能である。
文句なしの正論のように見える最後の一行にしても、
「司直の正義」があたかも現実に機能しているかのような書き方には違和感がある。
この文章を書いた記者は、
「小沢はクロ」であり「検察は正義」だという、
実はなんら検証されていない命題を無意識のうちに前提にしているのではないか。
…というのはむしろ遠慮した言い方で、
昨日の原口大臣のクロスオーナーシップ禁止発言に対する搦め手からの反撃だとぼくは理解している。

つまり、事態はいまや、
「検察=大手マスコミ連合軍」対「民主=フリージャーナリスト連合軍」の全面戦争の様相を呈している。
面白いのは「検察=大手マスコミ連合軍」の一翼と思える「週刊朝日」が
最新号でフリージャーナリストの上杉隆による「検察の狂気」をトップ記事に据えていることで、
ぼくはメディア内部の人間だからよくわかるが、
マスコミにはそういうところがあって、週刊誌など大組織の隅っこまでは経営中枢の意思が貫徹されない。
(わが「ETV特集」もなんとなくそーゆー存在である…笑)
左右を問わずマスコミ批判をする人のほとんどはそこのところが解っていないから、
マスコミを一枚岩の存在と見做して現実とかけ離れた議論をしてしまうことになるのだが。

それはさておき。
ぼくはもともとニュースの人間ではない所為か、いわゆる「スクープ」に何の価値も見いだしていない。
正確に云えば、
何もないところからこつこつ調べ上げて
知られざる事実を明らかにした「調査報道」が「スクープ」だというなら高く評価するが、
目下話題の大事件に関して、
容疑者の逮捕がいつだの、取り調べでどう供述しただのを一刻を争い報道することに意味を感じていない。
昔は不羈のサムライというか、風体も行動もやくざっぽい事件記者なんてのがいて、
警察や検察と一定の緊張関係を前提にした信頼関係を築き、次々にスクープを放っていった。
抜いたの抜かれたのでしのぎを削りながら、
それが結果として権力の濫用をチェックすることになり、新聞報道の質を高めることにもなった、
そんな時代があったことだろう。
しかし、読売社会部の記者だった本田靖春はその著書「不当逮捕」で、
そうした「社会部の時代」の終焉を1950年代の後半にみいだしているのである。
してみれば、大手マスコミは、
遠く過ぎ去った栄光の日々の幻影を追うあまり、システムの形骸化を起こしているのではないか。
最近のサラリーマン化した若い記者たちに、
自分が調べあげてきた事実を相手にあててみて、
ちょっとした表情の動きから真偽のほどを正確に判断するなんて、できそうにもないことである。
「記者クラブ」に象徴される利権化したポジションに安住していては、
マスコミの操縦法に熟達してきた検察(のみならず、官僚や企業)に思うさま使われるのがオチだろう。

というわけで。
ぼくは現在のこの事態は、
上杉隆や、かつて「国策捜査」のスケープゴートとされた佐藤優がいうように、
小沢と検察の「権力闘争」とみるべきだろうと考えている。
そして、既得権のぬるま湯に浸かりすぎたためか、
マスコミが無自覚なまま権力闘争の道具に利用されているのは大きな問題だと考えている。

戦闘的なtwitter愛好家である原口総務大臣は、きょうは次のような「つぶやき」を残している。

各国の報道メディアの原則をひろってみました。
 1 「推定無罪の原則」
 (最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと) 
○原則2 「公正な報道」
 (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること)
○原則3 「人権を配慮した報道」
 (他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、
  検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
○原則4 「真実の報道」
 (自主取材は自主取材として、
  検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
○原則5 「客観報道」
 (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)

「原則5」が現実的にどこまで可能かを措くとすれば特段の異論はない。
しかし、放送に対する許認可の権限を有する大臣がこの時点でマスコミの在り方に口出しをすることは、
それもまた「権力闘争」の一環であり、
たとえ正論であっても「言論の自由」への干渉であるとの非難は免れないだろう。
…それがこの問題の難しいところである。
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