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「襤褸の旗」…日本百年のデジャ・ヴュ



仕事が順調に進んだので、きょうは一日休みをとることができた。
しばらく映画を観ていないので、映画でも…と思ったが、
もうひとつ食指の伸びるプログラムがない。
ポランスキーの新作にはちょっと興味を惹かれたが、
結局、京橋のフィルムセンターに、
吉村公三郎監督の遺作「襤褸の旗」を観に行くことにした。
三国連太郎が足尾鉱毒事件の田中正造に扮した作品である。
1974年に作られた映画で、封切りで観た覚えがある。
1974年といえばぼくが大学に入った年だが、
どんな感想を抱いたのか、いまとなっては明瞭な記憶がない。
ただ三国連太郎の限りなく狂気に近い熱演が印象に残っている。

この映画をもう一度見たくなったのは、
福島原発事故による放射能汚染の取材を続けているからだろう。
せっかくの休みだから
気分転換できるものを見ればよさそうなものだが、
どうも現実を引きずってしまって、そういう気にはなれなかった。

40数年ぶりに見直して気がついたのは、
三国連太郎の田中正造が画面に登場するのが遅いことである。
その前に、
谷中村の百姓たちが帝国議会への請願のため東京に向かい、
警官隊によって一網打尽とされるまでのシーンが延々とある。
ファーストカットの
未明の道を松明を手に集まってくる百姓たちを捉えたカットから、
名カメラマン・宮島義勇によるモノクロ映像が素晴らしい。
百姓たちの帝都進入を阻止しようとする警官隊との衝突は
「アルジェの戦い」を彷彿とさせる群衆シーンで、
左翼の闘士として知られた宮島さんは
本当はこれが撮りたかったのではないかと思わせるほどの迫力だ。
百姓たちが暴力性を剥き出しにした権力によって蹴散らされた後、
初めて田中正造が画面に現れ、帝国議会での大演説となる。

画面の中の虚構(といっても事実に基づいているのだが…)と
いまを生きるぼくの現実が距離感を失ったのは、
谷中村を訪ねた新聞記者が「毒塚」を見るシーンからである。
「毒塚」は鉱毒で汚染された土を剥がして積み上げた塊で、
記者は思わず手を触れようとして爛れるからと押し留められる。
ぼくは最近、これとよく似たものを現実に見てきた。
原発事故で学校の校庭に降り積もったセシウムを除去しようと、
セシウムが付着した表土を剥がして積んだ小山である。
虚構と現実、明治と平成、鉱毒と放射能…
様々な差異が一瞬にして消失して、
ぼくは不思議な既視感(デジャ・ヴュ)に囚われる。
同じことが飽くことなく繰り返されてきた、という感覚…。
映画はやがて
国家によって故郷を追われることになる谷中村の人たち、
その無念の思いを描き出していく。
映画の製作当時には三里塚が意識されていたことは疑いない。
だが、ぼくはそこに、
いままた同じことが起きているのを想起せずにはいられない。
必ずしも強権をもって追われたわけではないが、
故郷に住めなくなってしまった福島の人たちのことである。

足尾鉱毒事件は「日本で初めての公害問題」だと言われる。
そして福島原発事故は、
目下のところ「最新の公害問題」に他ならないだろう。
問題は百年の月日を隔てた二つの「公害」問題の、
何が違っていて、何が変わっていないのかということである。

二つの事件は、
ともに一企業の権益が「国策」の名の下に追求され、
その結果、
無辜の生活者の暮らしを
回復不能なまでに破壊してしまったという共通項を持つ。
一方、差異は、
やり切れないことだが、
被害を受けた地域が今回の方が遥かに広範にわたっており、
なおかつ被害の程度も深刻だろうということである。
つまり、ぼくたちの社会は過去の過ちに学ぶどころか、
過ちを省みることなく、かえって増幅してしまったことになる。
いや、この国では、
無数の谷中村が、無数のフクシマが、
これまでも何度となく繰り返されてきたのである。
ぼくたちはそのことに怒りながらも、やがて忘れた。
結果として、同じことが繰り返されるのを許してきた。

谷中村から福島原発事故までの百年余を俯瞰してみれば、
日本の国のありさまが見えてくる。
実は権力構造は何ひとつ変わっていないのである。
いまも田中正造がいう「人民あっての国」にはなっていない。
そのことは、
今回の原発事故の処理に際して
いったい何が優先されたかを見れば一目瞭然だろう。
ぼくはそのことが堪らなく悔しい。
そして、三十年余り報道の場に禄を食んだものとして、
結果として「何も変えられなかった」ことへの無力感を感じる。

だが、立ち止まって、自己嫌悪に浸っている暇はぼくにはない。
百年変わらなかったものが、
百一年目に堰を切ったように変わることもあり得るから。

(写真は南相馬市立石神第一小学校の除染。画面左側に見えるのが現代の「毒塚」だ。)

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