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ドラマは現実を昇華し得たか?

園子温監督「希望の国」を観た(新宿ピカデリー)。
力作である。
夏八木勲の存在感が抜群で、
映像には独特の力が漲っている。
現地ロケによって切り取られた被災地の風景には
かけがえのない説得力と
さらには独特の詩情さえ感じられる。
被災地を訪れたときに感じざるを得なかった、
あの切迫した感情が自分の裡に甦ってきて、熱くなる。
にも拘わらず。
ぼくは映画を観ながら
終始ある種の違和感を感じ続けていた。
熱い共感と、
冷めた違和感のあいだで気持が揺れ動き、
最後まで物語に没入できなかった。
それはぼくが
福島の「現実」を知りすぎているからなのだろうか?

原発事故というあまりに生々しい現実を素材に、
園子温さんが表現したかったものは何だったのか?
なぜ現実の「福島」ではなく、
架空の「長島」を物語の舞台として設定したのだろう?
「長島」は「福島」ではない。
すでに福島の原発事故を経験した日本が、
再び経験する原発事故の地元が「長島」だとされる。
しかし、この映画で語られているのは、
「福島」そのものに他ならない。
長島が「ポスト福島」でなければならない意味が
いつまでたっても浮かび上がってこない。
その現実と架空の狭間にぼくはおいてけぼりを食った。

夏八木勲ら主人公一家を襲う状況は苛酷なものだ。
「悔しい」としか表現しようのない現実、
その同じ言葉をぼくは福島で何度聞いたことか。
牧場の動物たちの殺処分、
自分の土地に住むことができない被災者の自殺、
さらには放射能恐怖症に至るまで、
間違いなく現実の福島で起きていることに違いない。
しかし、それが、
フィクションとして再構成される過程で、
掬い上げた砂が指の間から零れ落ちていくように
リアリティが零れ落ちていく。
福島のようで福島ではない、「長島」という存在…。

ひとつ気になったことがある。
河原崎建三の医師が語る「知られざる福島の現実」。
政府や専門家によって巧妙に隠されてはいたが、
実は時間とともに内部被ばくは増えていたのだという。
これはもちろん事実ではない。
政府サイドに立つ「専門家」ではなく、
南相馬市立病院の坪倉正治医師らが
住民に密着しながら続けてきた地道な調査の結果、
明らかになった事実は全く逆だ。
内部被ばくは当初心配されたより遙かに小さく、
いま福島の子どもたちには
問題になるほどの内部被ばくは起きていない。

事実と違うからダメだというのではない。
そのようにして強調された苛酷さが、
却ってこの映画のリアリティを殺いだのではないか。
もちろん、
福島の人々が置かれた状況は苛酷に違いない。
だが、その苛酷さは、
(原発直近の避難区域を別とすれば)
放射能の自明な危険さによるものではない。
放射能がそれほどまでに危険であるなら、
この映画の登場人物のようにさっさと逃げればよい。
(映画のように放射能が追ってくることはないだろう。)
現実の福島が苛酷なのは、
現在の空間線量レベルの放射能に
どの程度の危険性があるのかがはっきりせず、
かといって安全とも言い切れず、
国や専門家の言うことはまるで信用できない、
そのなかで宙吊りにされながら生活しているからだ。
そこにあるのは、安全でも危険でもなく、「不安」だ。
不安だけが唯一現実であるという暮らしとは、
ほとんど無間地獄ではないか。

現実の福島が
一筋縄でいかない錯綜のなかで苦しんでいるのに対し、
この映画の「長島」の苛酷さは
どこかフィクショナルなものに思えた。
それがぼくが拭えなかった違和感の正体なのだろう。
「福島」という重すぎる現実を前に
作家はいったい何を語るべきだったのだろうか?
現実をどう物語に昇華すべきだったのだろうか?
…作家ならぬぼくには答えがない。
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