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私が株中毒らしい、ということが周りで有名になってきたらしく、株始めようとしてる人や、始めたばかりの人に株のことを聞かれることが最近あります。
その時よくあるのが
「大損したら働くの虚しくなんない?」
とか、
「株が気になって気が散ったりしないの?」
という質問です。

そう聞かれて気付いたのですが、そういえば最近そういう心境にはならなくなりました。
100万円くらいでやってた頃は確かにそういう心境があったのを覚えてます。1万円くらい評価損が出ると「あ”ー今日はタダ働きかよ~」とか。

しかし、最近は日給どころか月給分くらいの金額が普通に毎日増えたり減ったりしているのに、そんな毎日の市場が付ける価格を見ての心境を一言で表すと
「はいはい、毎日ご苦労様でーす(´ー`)」
という感じです。

そりゃ、資産が増えれば嬉しいし、減ればガッカリするけど、それで頭がいっぱいになったりすることは無い。

この心境は何だろう?とあれこれ思ってたら、ふと「婆子焼庵」の公案を思いました。

公案とは中国のお坊さんが悟りを開くための研究課題で、たくさん種類がありますが、その中の一つの「婆子焼庵」という公案が有名です。

この公案を簡単に書くとこうです。
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昔、ある信仰深い老婆が一人の僧のために庵を建て、若い娘を雇って身の回りの世話をさせ、修行をさせていました。

二十年も経ったある日「うちのお坊さんもだいぶ悟った頃だろう、一度試してみないといかん」と思い、娘にあることを耳打ちします。

娘は言われた通り、その日のお給仕が済むと後ろからお坊さんにしなだれかかり、
「ねぇ、こんなときはどうするの?」
と耳元で甘くささやきました。

しかしさすがは修行を積んだお坊さんです。
「冬の岩に立つ枯れ木ように、私の心はまったく熱くならない」
と、きっぱりと娘の誘惑を拒絶しました。

庵から戻った娘はすぐに顛末を婆さんに伝えました。すると婆さんはこのお坊さんを賞賛をすると思いきや「私はこんな俗物を二十年も養っていたのか!」と激怒し、即座に僧を叩き出した上「汚らわしい」と言って庵に火を放って焼いてしまいました。
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これが婆子焼庵のお話です。
そしてこのお坊さんは一体どうすれば良かったのか?というのが公案です。

しかし公案には解答は与えられていません。それは修行で見つけなさい、というものだからです。

じゃあ、と自分で考えてみます。
とりあえずこの婆さんはキッパリ誘惑を断ったお坊さんに対してダメ出ししたわけで、俗欲の否定は不可ということになります。
これは何となく分かります。他人に道を示す立場の人間が、人間の最も基本的な性質である俗欲との関係を完全に絶ってしまっては、説得力のある説法など出来るはずも無い。

かといって俗欲に溺れていては何のための修行か分からず、当然の如く不可。

ということは、俗欲の存在を肯定しつつそれに流されず上手く付き合って行く必要がある、と取れますが、ならばこのお坊さんは具体的にどう行動すればよかったのか、と問われると、難しい。

このようにこの「婆子焼庵」は数ある公案の中でも特別難しい部類に入るそうです。

話は戻ります・・・

自分が資産の増減に以前より感情が安定してきたことに対して「婆子焼庵」を思い出したのは、少し自分も俗欲のコントロールの修行が進んできたかな、と思ったりしたからです。

相場においても、俗欲の完全制御こそが悟りと思います。
自分も最初の頃は、儲け損なった時はあそこで買っておけばとか、何であそこで売らなかったんだとまず後悔。

上手く利確しても売値よりさらに上がるとまた後悔。という感じで勝っても負けても年中後悔。まさに俗欲の塊でした。

かといって、その感情コストに耐えられず相場から撤退して労働のみを行う決心をし、一生搾取し続けられることを甘受するという「俗欲の完全断絶」も自分にはムリでした。

というわけで問題は欲といかに付き合って行くか、ということになったのですが、それが少し進んだかなと。

ただ、この「婆子焼庵」、悟りに達するには何十年もかかるそうです。
確かに、自分も少しは俗欲の制御に慣れてきたとはいえ、まだ冷静になれるのはいいとこ資産の30%~40%の損までと思われる。それ以上の損を短期間に抱えたらどうなるかは自信が無い。

ということは自分はまだ序の口で、まだまだ悟りを開くには先は長いということだと思います。

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