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坂上遼「消えた警官」

坂上遼の菅生事件に関するドキュメント「消えた警官」を読み了える。
あとがきを読んで気がついたのだが、著者はどうやらぼくの会社の先輩である。
年齢は四歳しか違わないが、著者は記者で、ぼくはディレクターだということもあって面識はない。
先輩だから誉めるワケではないが、これはなかなか読み応えのあるルポルタージュである。

菅生事件は1952年6月、大分県菅生村(当時)で起きた駐在所爆破事件である。
共産党の活動家数名が「現行犯逮捕」されたが、
後にこれは「冤罪」どころか警察によるフレームアップ(でっちあげ)だったことが判明する。
当時、共産党は、
「山村工作隊」や「中核自衛隊」(この名称は初めて知った)を組織し、武装革命路線をひた走っていた。
事件は、菅生村で共産党の激しい攻撃にさらされていた地元のボスと警察が結託して起こしたもので、
共産党組織に囮捜査員を潜入させたうえで警察当局が“自作自演”したものであることがはっきりしている。

「消えた警官」は、市木春秋…実は囮捜査員の戸高公徳が、菅生村に足を踏み入れるところから始まる。

「向かいの豆腐屋の煙突からうす紫色の煙が流れている。
 その先を眺めるとどんよりとした曇り空が広がっていた。
 もう三月だというのに高原の空気はぴーんと張りつめて、大分市内よりも随分寒く感じられる」

…といった描写が最初のページにあるので、正直云って「なんじゃ、こりゃ?」と思った。
これは囮捜査員としてその存在自体が謎とされた人物の主観描写である。
本人からの聞き取りに依拠した事実の再構成とは思えないので、明らかに著者の想像の産物である。
これはノンフィクションとして「ルール違反」ではないか。
短気なぼくは、この描写だけで、先を読むのを止めて屑篭に本を投げ込んでしまおうかと思ったほどだ。
ぼくは著者と同じテレビ屋だから、
導入部に読者を惹きつけるだけのインパクトを持たせたいという著者の気持は痛いほど解る。
でも、こうした「見てきたような嘘をつく」描写は、
ノンフィクションとして許される一線を微妙にだが越えているとぼくは思う。
幸いなことに、妙な描写はそこだけで、あとはタイトに展開する良質のドキュメンタリーなのだが。

この事件の異様さ、犯罪性は、直接原著にあたっていただくしかない。
しかし、確かに戦後に続く混乱期、
共産党の先鋭化の一方で保守政権の「逆コース」が鮮明になってきていた時代のことであるが、
こうした権力の犯罪性は、決して当時に特有のものではないだろう。
そう思わせるのは、
最近、小沢一郎に対する検察特捜部の捜査ぶりに異常なものを感じ、
(念のために断わっておくが、ぼくは小沢シンパでも民主党の支持者でもない)
検察情報に踊らされている(としか見えない)大手マスコミの報道姿勢に強い疑問を感じるからである。
菅生事件でも、
事件当夜、警察からの情報をもとに現地に張り込んで「犯人逮捕の瞬間」のスクープを放つ毎日新聞と、
独自の調査によって事件の真相を浮き彫りにしていく
共同通信やRKB毎日放送の報道姿勢がくっきりとした対照を描いている。
遠慮会釈のないところを云わせていただければ、
現在のマスコミはほとんどが当時の毎日新聞の轍を踏んでおり、
権力悪を暴くだけの志と力量をともに失っているのではないだろうか。

そういう意味で、
あとがきにある著者が若い頃に先輩記者に諭されたという言葉が重い。

「時間差の特ダネは本当の特ダネじゃない。
 自分が書かなければ陽の目を見ないようなネタを書いてこそ、本当の特ダネ記者だ」

マスコミに禄を食む人間の一人として、ずしんと胸に響いてくる言葉だ。
ぼくは先日も書いたように根っからの「B級ディレクター」であり、
(BC級の「Cに近い」と云ったヤツがいる。悔しいけど真実に近いかもしれない…)
「特ダネ」で評価されるという立場にはないが、
それでも「自分が書かなければ陽の目を見ないようなネタ」にこだわり続けたいと思っている。

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