魚屋の業務を通じてたくさんの人に出会った。
同期のライバル、厳しい先輩、十人十色のお客さん、でっかいエビ。
今でも尊敬している店長。
結果としては退職して違う道へ進むことになったけれど、たくさんの事を学ばせて貰った。
今時の職場とはちょっと違うかも知れないけど、当時はとても楽しく、疲れや悩みもなかったな。
魚屋で出会えて良かった6人(とエビ)をまとめてみた。
魚屋になった経緯
小さい頃から料理が好きで、将来の夢は料理人だった。
自分の親はあまり料理が上手では無かったかも知れないけれど、食材を買ったり、自分で作ってみることには反対しなかった。料理本を見て自分で作る。基本は和食だ。魚釣りが好きで魚を使った料理が多かったこともあり、自然と魚を捌けるようになった。
中学を卒業する頃、学校が面白いと感じなかったこともあり、早く社会に出た方が学びの機会が多いと考え就職することにした(後に高校、大学で学び直すことになったけど)
料理人を目指していたけれど、たまたま近所に魚屋に務めていた知り合いがいて、その人が努めていた会社の面接を受けることになった。従業員400人程の会社は、地方に本社を構える小売業、魚屋としては大きい方だった。
面接はコネっぽい(コネで入りたい人もいないと思うけど)形だったこともあり、当然合格。
話を聞くと、同期となる社員が高卒2名、大卒1名(自分を入れて4名入社)がいることが分かった。
3歳年上や7歳年上の同期。15歳の子供と22歳の大人。当時は同期だと思い、ライバル心むき出しで仕事をしていたけれど、今考えると笑ってしまう。
1人当たり5,000万円売り上げる店舗
配属されたのは中国地方で一番大きいお店、デパート地下に入居している店舗、「若手は一番忙しく、厳しい店舗で教育する」という会社の方針だ。この店舗のスタッフは正社員15名とパートが5~7名。この人数で鮮魚を武器に年間10億円を売り上げる。一人当たり、年間5,000万円も売っている計算だ(そういえばとてつもなく忙しかった)
配属されて間もなく、「一番忙しく、厳しい店舗」はウソではないことを知った。
3時起床、4時から市場で始まるセリ、トラックでの荷物運び、荷降ろし。夢にまで出てくる量の魚を下ろし、パック、前売り、、、レジの応援も。この店舗に異動になるという話を聞いた社員が精神的に参って辞めたという噂は本当だった。
労働時間は公表できない時間だったけれど、居残り調理レッスンなど、自分から志願し取り組み、毎日ひとつ、新しいことが出来るようになる喜びに疲労も吹き飛んだ(新入社員は今もこんな感じなのかな?)
思い返すととても充実した魚屋時代だった。普通は高校に行く年代だけれども、自分には先輩社員やデパートのスタッフ、それから、厳しいフィードバックを頂いたお客さんが先生代わり。学校で違和感を感じた「皆が一番」見たいな空気は(当然だけど)全くない。仕事が出来る人が一番エライ。
魚屋で出会えて良かった6人(とエビ)、1人目 同期で入社した「やっさん」
魚屋の頃に出会えて良かったと思える人は数えきれない。
例えば、高卒で魚屋に就職したやっさん。
温厚、真面目な性格でもの静か。
魚屋も他の仕事と同じように下積み修行が厳しく、洗い物にゴミ出し(強烈な腐敗臭で皆が嫌がる)、荷物運びに砥石研磨。状況によっては包丁を持てるようになるまで数年掛かることもある。
どんな職場でもある、”皆が嫌がる作業”
中々率先して出来るもんじゃない。
彼はこうした丁稚作業も自ら進んで担当し、入社後数年が経過して後輩が出来ても変わることは無かった。
派手さは無いけれど、真面目な仕事ぶりにスタッフとお客さんから信頼されていたやっさん。あたりまえだけど、遅刻や欠勤も無く、仕事に取り組む姿勢は今思い出しても尊敬出来る。
2人目 定年間際のやまむら(仮称)さん
魚屋の人事移動は残酷だ。定年間際のスタッフが一番忙しく、厳しい店舗で働かされることもある。担当は焼場、ウナギを焼いたり、「大兄貴」となった魚を焼いたり煮たり。焼場は50度以上になるので若手でもキツイ。土用の丑の日に焼場を担当すると、1日で5キロはやせる。
やまむらさんが、若手にまざってトラックからの荷下ろしをすることもある。
時間が勝負の荷降ろし作業、若手は魚のトロ箱を3段、4段重ね(15Kgくらい)てバケツリレーで運ぶ。
若手の間に入ったやまむらさん。
何でそんなところに入るんだ・・・
ボトルネックという概念をいつも明るい対応で教えてくれてありがとう。
3人目? 特大オマールエビ
入社後2年も経過し、一通りの業務を覚え「オレは出来る魚屋だ!」と調子に乗っていた時期。
市場に行くと、とてつもなく大きいエビがいた。
こんなエビ、買っても仕方ないけれど魚屋の性か、ただの食いしん坊なのか、どんな味なのか気になって仕方が無くなった(たぶん大味、オマールエビなので純粋にボイルして食べ比べると甘みも少ないと予想したけれど、”大味”という表現を頭の中で数値化したかった)
その後のせりもエビが気になって集中できない。
大型店舗の特権である「こっからここまで、全部!」という全部買いでさっさと仕入れを済ませ、再びエビの所へ。
幸いにも落札されておらず、ヒマそうにハサミをモジモジしていたので1万円で調達。
しかし、その後予想外の事が起こった。
店舗に持って帰ったオマールエビを見て、店長が一言。
「コレ面白いから水槽に入れて飾っとけ!」
えっ!?
(勉強の為)食べようと思ったのに。
会社のお金で購入したエビを食べるには、いくら業務上の勉強とはいえ正当な理由がいる。
彼が水槽でお客さんを引き寄せる活躍をする限り、食べることはできない。
仕方がないので、いったんは彼を応援することにした。
子イワシをあげたり、暇そうに水槽の中でボーっとしている時は、掃除道具であるモップの柄で遊んであげた。
そんなある日。
当時刺身担当だった私は特売日の為、朝4時に店舗入りしたところ、彼が水槽の真ん中でひっくり返っていた。水槽から取り出すと、まだ温かかった(エビ臭くもあった)
彼がお店の水槽に来て2カ月後の出来事、オマールエビの最後はあっけない。
これで終わらないのが魚屋である。
水槽で亡くなった魚やエビ・カニ、貝類も、腐ってない限り加工して販売する。
彼も例外ではなく、「塩ゆでオマールエビ、3万円」として売られる死後の世界のチャレンジが始まった。茹でた当日に売れなければ、半割にして15,800円で売られ、それでも売れなければ半額シールという不名誉な物を張り付けられてしまう。
夕方、ここで売れなければそろそろ厳しいかも、、、というタイミングで、如何にもお金を持っています(デパートには時々いるお客さん)という恰好をしたお客さんが。
特大オマールエビに興味津々だ。
(この時は)味を知らないオマールエビ。しかも、とてつもなく大きいので「美味しいですよ!」はとても言えない。仕方ないのでどんな味がするのか分からない旨を説明し、食卓に飾れば思い出になる事をアピール。話の種になるということで買って頂けることになった。
エビ一つにもストーリーがある。
4人目 会社のエースだった店長
一番忙しく、厳しい店舗の店長。
当然だけど、会社のエース級が店長を務めていた。
当時確か30代後半だった店長。
鮮魚に関する専門知識から、調理の技術、食品業者の管理、店舗オペレーション、スタッフ管理など、プレイングからマネジメントまでこなす、非の打ちどころのない完璧な魚屋だった。
この店長からは上記の内容を一通り、その他にもたくさんの事を学んだ。
美味しいと思う魚、魚料理は何なのか、毎日少しずつメモを取りながら実際に食べて記憶に擦り込んだ(サバのしゃぶしゃぶや、天然鯛の骨蒸しは美味しかった)
魚の調理技術も半端ではない。鯵やサバ、鯛は普通の人が見たら何をやっているか分からないくらいのスピードで捌く。それも骨はペラペラになるほどの薄さで、まな板も汚さない。
この調理技術も盗みたくて、「毎日ひとつでいいので新しい事を教えて下さい」とお願いし、いろいろ教わった。普通は教えてもらえないことだ。閉店後の個別レッスンはとても楽しかった。
当時の店長の年収は1,000万円。10億売る店舗の店長としては安いくらいかも知れない。スタッフ全員がこの店長の為なら頑張れると思われているような人だったので、皆店長に認められたいと頑張っていた。汚れ仕事も進んでやる店長だったので、皆店長にさせまいとベテランも汚れ仕事をする。誰よりも早く市場に来るので、他もスタッフが完璧に仕入れをこなして朝のんびりして貰うようにする。
店長がサボっているように見えたら一人前。
入社2年を経過した頃、新しく出来た大型店の立ち上げの為、店長が移動になった。
そういえば、入社して店長に褒められた記憶がほとんどない。
「おまえはあえて褒めなかった。お前ならどこに行ってもやって行ける」
送別会の時に言われた言葉に人目をはばからず号泣した。
5人目 朝一番に魚を買いに来てくれるおばあちゃん
デパートで魚を売るのは特殊だ。
朝一番に、
わざわざ電車やバスに乗って、
魚臭い袋を下げて、
スーパーの魚と見た目にはほとんど変わらない高額な魚を買って帰るお客さん。
自分だったら(当時は)絶対デパートで魚は買わない(買えない)ので、何故お客さんはわざわざデパートに魚を買いに来るのか、何を求めているのかという問いに常に向き合っていた。
デパートの魚屋にしか出来ない顧客体験と商品価値。
こいつを提供出来なければ自分たちの存在価値は無い。
魚屋は魚が好きなお客さんを大切にする。
例えば、お店に「明日買物に行こうと思うけれど、XXXのような魚はありますでしょうか?」という電話があったとする。
電話では、天候の影響もあるので保証は出来ないというイマイチな回答をするけれど、実際は市場で本気(この本気度がデパートの価値)になって探す。仲買業者にも本気になって手伝って貰う(そうしてくれない業者とは付き合えない)
かたい魚が食べられないお爺さんに食べさせたい、昔食べた味が忘れられない、だいたい電話してくるお客さんや、お店で相談してくるお客さんの話にはエピソードがある。これを引き出すのもデパートの店員が持っている価値だ。
我々の使命は(広島で)最高の魚を提供すること。
デパートの開店直後に魚屋に来て、1匹3,000円のメバルを2匹買っていくおばあちゃん。
いい仕事をした時は、翌日も来てくれて「美味しかったよ」の一言と、良く分からない梅干しの飴玉が貰えたな。
6人目 食品、お惣菜フロアの皆さん
デパートで勤務するのは幸せだ。
だいたいデパートの従業員は女性比率が高い。
自分のような若い不健康そうな男が食堂にいると、色んな人が声をかけてくれる。
特に中が良かったのがいわゆるデパ地下、お惣菜や食品売り場のおばちゃんたち。
彼女たちがお昼ご飯にと色々持ってきてくれるので、お弁当は白ご飯だけで良かった。
7人目 3ヶ月後に来なくなった、毎回2,500円の刺身を買うお客さん
「市場で仕入れた特大オマールエビ」の項目にも書いたけれど、入社して2年が経過した頃、天狗になってしまった。
若くして包丁を持ったこともあり、毎日数100キロの魚をさばく間に調理の技術はベテランと変わらないレベルになった。最初は手つきが見えなかった店長の包丁捌きも、頑張れば僅かに遅れるペースで下ろせるようになってきた。お客さんがハモを骨切りして欲しいと言われた時、昔は自分が切ろうとすると露骨に嫌そうな顔をされた(当たり前だ、自分がお客なら勘弁して欲しい)が、逆にお兄ちゃんが切って!と指名されるようになった。
商品知識は毎日魚を食べまくって、業者にも質問しまくっていたのでだいぶ詳しくなった。
不思議な物で、スキルが高まると、お客さんの信頼も加速度的に増してくる。自分が説明すれば納得して買ってくれるお客さんや、他の売り場にいる所をわざわざ探しに来てくれるお客さんもいた。
当時担当していた刺身場では、前任者の売上を前年比(前年の同じ月)150%アップで数値的にも結果を出していた。広告からポップ、刺身のトレイ、普通の刺身を作るだけではなく、(売れないけれど)天然の魚をふんだんに使って姿造りや薄づくりなど、競合店が視察に来るくらい、見た目にも楽しめる売り場を作った。
顧客目線の魚屋から、自己満足だけの魚屋になりつつあった頃、毎週同じ曜日に決まって2,500円もするマグロの刺身を買われるお客さんに気付いた。この2,500円という価格は当然いいマグロを使っているけれど、デパート価格という部分もある。たった7切れのお刺身。かなりの金額だ。
ある時、広告を打ったためセール品の対応に追われてマグロのお刺身が出来ていない時にこのお客さんが来られた。注文された為、もちろん感じよく対応したが、忙しかったこともあり、いつもは7mの厚さに切る刺身がその時は9mの厚さで切ってしまった。
後ほど取りに来られるというので、他のスタッフに託け場所を離れていた私は、対応をお願いしていたスタッフと、お客さんの対応を聞いて愕然とした。
「これではお使い物にできない」
聞けばこのお客さん、近くにある病院に入院している父親に、毎回最後の食事になるかも知れないとのことでマグロのお刺身を持って行っていたとのこと。
いつももう少し薄く切ってあればと思ってたのが、今日はさらに厚切りになっていたので、これでは食べられないと言われたようだ。
直ぐにやや薄切りにした刺身を作りなおすと共に、次回の来店日を尋ね来店時間前に用意しておく旨をお伝えしたが、その時は自分のずさんな対応にガックリとしてしまった。
あのお客さんは2,500円もする食べれるか食べれないか分からない様な刺身をどんな気持ちで買っていたのだろうか。
店長に状況の説明と反省の意を示すと、原価は度外視して良いから広島で最高のマグロを仕入れるように指示をされた。このマグロ、元々いいものを使っているので実は2,500円でも赤字になる。店長はそれでもさらにいいものを仕入れるよう、マグロ業者にも掛け合っていた。
それから3ヶ月、毎週のようにトロの刺身のお客さん(魚屋は分かり易いニックネームを付ける)は来てくれていたが、ある時、ぱったりと来られなくなった。
店舗のスタッフも心配していたが、数ヵ月後に本社へ手紙が届いた。
「美味しいマグロをありがとう」
社内報で読んだら、最後の時間を過ごす為にとても親切にしてくれたスタッフへ、お礼の言葉が記されていた。
魚屋の仕事は楽しい。
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