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萩野靖乃さんの「テレビもわたしも若かった」



去年亡くなった大先輩のディレクター、
萩野靖乃さんの遺稿集
「テレビもわたしも若かった」(武蔵野書房)を読んだ。
萩野さんの個人史のかたちを借りた
TVドキュメンタリー史とも言えるもので、
テレビ論としても示唆に富んだ、実に面白い本だった。
この本の中核をなすのは
萩野さんが生前に書き溜めておられた原稿で、
ご本人から本を書いていることは聞いていたが、
結局、出版されないままで亡くなられてしまった。
夫人が遺稿を大切に保管しておられ、
萩野さんを敬愛する後輩たちが
代表作のシナリオなどと合わせて一冊にまとめたのが、
この「テレビもわたしも若かった」である。

萩野さんは
NHKを代表するドキュメンタリストの一人である。
フィルム時代に、
「救急指定 市立S病院」(1975)
大村収容所にカメラを入れた
「NHK特集 密航」(1980)などの傑作を作った。
その後は、
斬新な演出で人気を呼んだ
若者番組「YOU」を起ち上げたことでも知られている。
ぼくがまだ駆け出しのディレクターだった頃、
ヒマがあれば資料室に通い詰めて
先輩たちが作ったドキュメンタリー番組を見ていたが、
そうしたなかに萩野さんの上記の二作、
さらには暴力団の経済事件介入をテーマにした
「倒産・影の紳士たち」(1981)などの番組があった。
1980年代の後半(おりしもバブルの時代だ)、
未熟さを自覚しつつも
ドキュメンタリーを志していたぼくにとって、
萩野さんは気さくでありながら「狸」でもあり、
それでいて頼り甲斐もあるという、
なかなか一筋縄ではいかない上司(部長)だった。

萩野靖乃さんは東京大学文学部在学中に60年安保を経験、
(警官隊との衝突で殺された樺美智子の同級生だった)
翌61年にディレクターとしてNHKに入っている。
テレビ放送が始まったのは1953年で、
1959年の「御成婚」(現天皇夫妻の結婚)を機に
テレビ受像機が爆発的に普及しつつある時代だった。
(萩野さんは学生時代、
 テレビをほとんど見たことがなかったと書いている。)
この本では、
人柄そのままの剛直でストレートな文章で、
萩野さんの新人時代、
つまりTVドキュメンタリー草創期を記述していく。

その頃のテレビは、
NHKと民放とを問わず、
アナーキーで未熟、不定形ではあったが、
ジャーナリズムとしての反骨精神を堅持していたという。
1962年頃には
民放を含む在京の全放送局が、
ゴールデンタイムにドキュメンタリーを放送していた。
しかし、
民放でもNHKでも、
組織が“成熟”し官僚化していくにつれて、
ドキュメンタリーは次第に主流から弾き出されいく。
放送局の経営陣とその取り巻きからは、
ドキュメンタリーは権力者に睨まれる「問題児」で、
時代遅れの「伝統芸能」だとして排撃されるようになる。
萩野さんは
ドキュメンタリーが冬の時代を迎えるまでの過程を
静かだか怒りを込めた筆致で書き残している。
自分自身が体験した事実をもとにしているだけに、
一般論にとどまらない説得力がある。

先細りするドキュメンタリー派ディレクターの系譜の、
いささか情けない末裔の一人であるぼくにとって、
この本を読むことは
自分の歴史的な立ち位置を確認することでもあった。
思えばテレビの歴史はようやく還暦を迎えたばかりで、
それでいて早くも衰退の気配は覆うべくもない。
一気に成長して一気に衰えつつあるメディアであり、
日本人の平均寿命ほど生き長らえるかは疑問だと思う。
現在57歳、入社35年目のぼくが、
テレビの歴史の半分以上を
実作者として体験しているわけだから、
馬鹿馬鹿しいほどに歴史の浅いメディアなのである。

ぼくはテレビ・ドキュメンタリーの最盛期は
萩野さんに先行する大ディレクター・工藤敏樹さんが、
次々に傑作を放った1960年代後半だと考えてきた。
しかし、萩野さんによれば、
ピークは’60年代の前半であり、
その後は衰退期に入っていたという認識である。
テレビ放送が始まってわずか10年あまりで
メディアとしての頽廃が始まっているということになる。
同じ頃、
構成作家として
テレビの現場に関わっていた作家の小林信彦さんは、
ヴァラエティ番組についていえば
’60年代前半が「テレビの黄金時代」だったとしている。
現場を知る二人の認識は一致しているわけで
可能性を秘めた黄金時代とはかくも短いものであったのか。
いずれにせよ、
NHKでいうならば、
報道局がドキュメンタリーから撤退して
「ニュースセンター9時」に要員を集中した1978年には、
ドキュメンタリーの退潮は明らかな趨勢だった。
翌1979年、
ドキュメンタリーが作りたくてNHKに入ったぼくなど、
始めから「遅れてきたテレビマン」だったわけだ。

1980年代のNHKにおいて
「ドキュメンタリー」がどれだけ疎まれ、
弾圧の対象になってきたかは、
ぼくが実体験として知っていることである。
「ニュースセンター9時」路線を強力に推進した
政治部出身の島桂次氏(シマゲジと呼ばれた)が
報道局長、やがて会長と権力を集中していく時期である。
書き原稿に絵をつけただけの
「電気紙芝居」に他ならなかったニュースを
躍動感のあるニュースショーに脱皮させた島氏の功績は、
一概に否定できないものがある。
しかし、氏の基本的な戦略は、
(当時、末端のぼくたちにも伝わってきたが)
NHKを「情報産業化」していくというものだった。
日々生起する大量の「情報」を効率よく収集し、
それに様々な加工を施し、
付加価値をつけて視聴者に提供するというのである。
「日経新聞のテレビ版を目指す」という
当時のスローガン(?)をぼくは記憶しているが、
現場の記者やディレクターには
まず「情報の収集マシーン」であることが求められた。
しかし、
そうしたテレビのありようは
「情報産業」ではあるかもしれないが、
断じて「ジャーナリズム」とは無縁のものである。
目標とした日経新聞が現在もそうであるように。

当時の人気ニュースキャスターの著書に
「テレビはニュースだ」というのがあったと記憶する。
書店に平積みされている本の題名を見たとき、
「ふざけるな、馬鹿野郎」と思った。
テレビというメディアの持つ可能性が
単なる「ニュース」に矮小化されていいはずがない。
ドキュメンタリーは
価値観抜きの「情報」の羅列とは一線を画する。
獲得された「情報」と
放送される「番組」とのあいだには、
主体としての「作り手」が厳として介在する。
ぼくたちは情報を収集する歯車に甘んじる気はなかった。
情報と格闘し、読み解き、
ある価値観の下に再構成して、
社会に対してメッセージを発しようとしていた。
それがジャーナリズムの本義だと、いまも考えている。
萩野さんがこの本のなかで
ジャーナリスト吉岡忍氏の言葉を引用して書いたように、
作り手の「顔」が見えないところに
そもそもジャーナリズムは成立しない。
ぼくたちドキュメンタリーを志す当時の若手は、
言い換えれば
「ジャーナリストであること」にこだわり続けた。
だから、
島路線のエライ人たちからは蛇蝎のごとく嫌われた。

萩野さんは当時のぼくの上司(部長)だった。
こうした趨勢のなか、
何とかドキュメンタリーを守ろうとして
苦労されたことと推察する。
こんなことがあった。
萩野さんのさらに上司に当たるセンター長から、
ドキュメンタリーを志向していた
ぼくたち当時の若手が呼びつけられたのである。
センター長は元科学番組のディレクターで、
一言でいってしまえばシマゲジの腰巾着だった。
後に理事にまで取り立てられるが、
シマゲジの失脚とともに更迭されてしまう。
「所詮は腰巾着」の哀しさ、である。
このセンター長は、
ぼくたちを叱責するつもりだったのだろう、
出頭したぼくたちにいきなり、
「お前たちは問題意識で番組を作っているのか」と言った。
もちろん、
ぼくたちは「問題意識で番組を作っていた」のである。
いうまでもない話だ。
怒るより先に呆れ果てた。
問題意識も持たずに番組なんか作れるか。
センター長との話は全く噛みあわなかった。
…こんな上司とこんな部下に挟まれていたのだから、
萩野さんは苦労されたことだろうと思う。
センター長には明らかに面従腹背で接しておられた。
それでも、
一度ぼくたち若手が談合して、
萩野部長を吊るし上げようと企てたことがある。
番組屋としては一も二もなく尊敬するが、
シマゲジ体制との戦い方が物足りない、というのである。
話の行きがかりによっては、
萩野さんを殴ってしまおうという話になった。
全くもって野蛮な話で、いまとなっては赤面の至りである。
結局、殴りはしなかったが、
「親の心子知らず」というところだったのだろう。

萩野さんはその後、
NHKスペシャル部長に昇進されたが、
ご本人が関与していれば決して許さなかっただろう、
「秘境ムスタン」のやらせ問題の責任をとって退任し、
組織の中枢から外れていかれた。
しかし、
萩野さんをぶん殴ろうなどと物騒な相談をしていた
かつての若手ディレクターたちは、
(もはや「若い」とはいえなくなっていたが)
ことあるごとに萩野さんを囲んで酒食をともにした。
みんな萩野さんを慕っていたのである。
それは萩野さんが亡くなる少し前、
昔からの仲間である七沢潔や大森淳郎が、
「ネットワークで作る放射能汚染地図」の受賞祝賀会に
すでに病を得て衰えておられた萩野さんを
主賓としてお迎えするところまで延々と続いた。
思えば、
もう一人の尊敬すべき大先輩、
工藤敏樹さんが早逝されたこともあって、
萩野さんほど広く後輩たちに敬愛された人はいなかったし、
もう現われることはないだろう。

「テレビもわたしも若かった」は、
萩野さんがすでにNHKを退職され、
フリーな立場で書いた原稿だということもあるのだろう、
極めて率直な筆致でテレビ論が綴られている。
NHKがダメになったのは
政治部出身者が権力を握るようになってからだとある。
確かに政治部出身の記者(の多く)には、
不思議なほど政治権力を批判的に捉える視点がない。
だから、政治家の意向を、直接現場に下ろしてきたりする。
いうまでもなく、ジャーナリズムとしては自殺行為だ。
シマゲジ時代だけではなく、
独裁者・エビジョンイルの異名をとった
海老沢勝二会長時代にも現場は様々な圧力に晒された。
従軍慰安婦問題をめぐって
放送直前に番組がズタズタに切り刻まれた、
「ETV2001・番組改変問題」が起きたのもこの時代だ。
当時の首脳陣が、
安倍晋三内閣官房副長官(当時)らの意向を忖度し、
番組内容に介入したとされる事件である。
萩野さんがこの本のもとになる原稿を書いたのは
2008〜09年にかけてのことだと推定されるが、
「安倍元首相」が報道内容に介入しようとしていることに
危機感を募らせている記述がある。
いま読むと、薄気味悪い予感に充ちている。

「テレビもわたしも若かった」は
ぼくたち「遅れてきたテレビマン」の世代に
萩野さんが残してくれた遺言だといっていいだろう。
個人史と重ね合わせながら
TVドキュメンタリーの衰退史を語ってきた萩野さんは、
文章の結び近くに
「公共放送を支える重要な部分は
 ニュースではなくドキュメンタリー」だと書く。
名ドキュメンタリストだった萩野さんの
テレビマンとして、ジャーナリストとしての、
誇り高いマニフェストである。
いまなお「冬の時代」を生きている
ぼくたちドキュメンタリーを志す後輩たちへの、
何よりの励ましの言葉として受け取った。
 
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