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先日のブログ「神戸『三把刀』と妻のルーツ」に関して、
民族差別を助長する、
あるいは民族差別を「利用する」ような書き込みがあった。
以下に核心部分を引用する。

「中国人と韓国人の店舗オーナーが先導し
 周りの店舗を煽っている。
 このオーナー達は他のエリアでもトラブルメーカーです」

一見、客観的な書き方をしているようで、
コメントしてきた「匿名」氏の悪意が滲み出ている。
ぼくはこうした言説は座視し得ない気質(たち)なので、
民族的差別感情を「煽る」ことへの警告を発しておいた。
たぶん、件の「匿名」氏から、
新長田再開発問題で活動をしている商店主の中心が
「中国人と韓国人」であるとの単なる事実を書いただけだ、
という反論があるのではないかと予期していたら、
驚いたことに別の「匿名」氏から反論が寄せられてきた。

「この匿名さんの文章、ヘイトスピーチ???
 国語力の無さも、ここに極まれり?
 (中略)
 いや、中国人や韓国人と書いたがための民族問題との。
 なら、米国人、北欧人・・・日本人は」
 
と、まぁ、こういう内容の「反論」である。 
文章の全体を読むと、
二人の「匿名」氏は同一人物ではないにせよ、
明らかに密接な関係にあることがよく判る。
ま、それはいいだろう。
正体を探ることには、ぼくは何の興味もない。
しかし、二人の文章がなぜ「差別的」なのかについては、
きちんと書いておくことにしたい。

まず、大前提として、
「人には様々な属性がある」ことを確認しておく。
氏名、住所、国籍、民族、職業、年齢、外観、性格…
無数の要素が組み合わさったのが「人」である。
だから、その人を現そうと思えば様々な表現が可能だ。
例えば、最初の「匿名」氏は、
特定の商店主を示すのに以下のようにも表現し得る。

「前頭部が禿げ上がって眼鏡をかけた商店主」
「中肉中背でブランド物を身につけた商店主」
「1959年2月13日生まれの商店主」
「血液型がB型の商店主」

これはあくまで例示であり、
具体的な人物像を前提にしたものではないが、
さようにありとあらゆる表現が可能なのだ。
では、なぜ「匿名」氏はこうした表現をとらなかったか。
いや、ぼくだって、こんな表現はしないだろう。
理由は明らかで、
そんな表現には「意味がない」からである。
逆に云うなら、
「匿名」氏は個人を形成する様々な属性のなかから、
敢えて選んで「中国人と韓国人」と書いたことになる。
つまり、
件の商店主が「中国人と韓国人」だという事実に
なんらかの「意味」を見いだしているということである。
では、新長田再開発問題に関して、
いったい当事者の民族的帰属に何の意味があるのか?

「商店主」だから業態を書くというならまだ理解できるが、
二番目の「匿名」氏が書くように、
「米国人、北欧人…日本人」であろうと、
もとより問題の本質には何の関係もない話である。
それを敢えて書いたことには、
当人が意識してのことか無意識かは別にして、
明らかに中国人や韓国人に対する「異端視」がある。
「煽る」という言葉を使うことで、
それを巧妙に増幅しているからには意識的なのだろう。
無知だが基本的には善良な日本人の商店主が、
狡猾でトラブルメーカーでもある
「中国人と韓国人」によって煽動されて、
問題を大きくしてしまったと暗示しているのである。
これは「排除の思想」であり、「民族差別」に他ならない。
一見、客観的なように見せて、
日本人のなかに潜む差別意識を「煽る」卑劣な表現である。
ぼくは「匿名」氏の意図を読み取ったうえで、
「よしんばそれが事実であったところで、
 ヘイトスピーチともなりかねない言動は慎むのが良識」
と穏やかに書いたつもりである。
本当は「(意図的な)ヘイトスピーチ」そのものである。 
二番目の「匿名」氏には
ぼくの国語能力を心配していただいて恐縮だが、
普通の日本語読解力があれば、
以上のような読み解きは簡単な話である。

最後に、本質的には蛇足だが、事実関係について書く。
二番目の「匿名」氏が書くように、
訴訟という局面において、
「中国人と韓国人の店舗オーナーが先導」
するかたちになっていたことを否定する気はない。
ただし、
「煽った」という表現は二人の匿名氏の価値判断であり、
単なる「決めつけ」なので事実とは言えないが。
(この同じ「決めつけ」に基づいて語っていることが、
 二人の関係を明らかにしているのだが…。)
しかし、
新長田再開発問題をめぐって
いま起きているより大きな動きのなかで、
その人たちは必ずしも中心的な役割を果たしてはいない。
二人の「匿名」氏は
「中国人と韓国人が煽った」との認識に固執する余り、
問題の本質を全く見逃していることを指摘しておく。

ぼくが最初の反論で書いたように、
この問題は
誰かが「煽って」大きくなるような話ではない。
神戸市の都市政策に基づく、もっと構造的な話である。
無数の事実のなかから
物事の「構造」を摑み出すのが報道の仕事であり、
一方の言い分だけを鵜呑みにして報道することはないが、
「本質」がどこにあるのかは常に判断している。
「取材」とはそのためにあることを申し添えておく。









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