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福島から生まれなかった「ゴジラ」

6月に3年間の仙台勤務を終えて東京に戻ってきて、
7月から毎週の福島通いを続けている。
なんのことはない、
仙台から行くか東京から行くのかの違いだけで、
やっているのは転勤前と同じことである。
最近の主戦場は福島南部のいわき・楢葉なので、
上野からスーパーひたちで通う方がむしろ便利だ。
きのうがいわき市にある楢葉町役場支所での取材で、
きょうは楢葉町内で住民を取材。
楢葉町はまだ避難指示を解除されていないが、
昼間は帰還準備のために町に戻ることができる。
除染がおおむね終わって
放射線量は町平均で0. 38μSv/hとかなり低くなった。
しかし、例え放射線量が充分に下がったとしても、
実際に住民が町に帰るためには
超えなければならない大小様々なハードルがある。
取材すればするほど、
原発事故の耐え難い苛酷さ、重さが身に滲みる。

…というところで、
突然だが最近観た映画について書きたい。
ハリウッドでリメイクされた「ゴジラ」である。
ネタバレを含むので、
未見の方はこの先は読まない方がいいかもしれない。

「ゴジラ」がスクリーンに登場したのは1954年。
今年でちょうど60年になるから、
ゴジラもついに還暦を迎えたことになる。
ぼくが初めて見たのは
1962年の第三作「キングコング対ゴジラ」で、
6歳だったぼくはいきなりゴジラに夢中になった。
いわゆる「怪獣少年」だったわけで、
「ウルトラQ」や「ウルトラマン」(初代)の放映を
リアルタイムで見ているのが自慢である。
(つまらない自慢だが、他に威張れることがない。)
そんな元怪獣少年にとって、
新作「ゴジラ」は
何よりもまず「よくできた怪獣映画」だった。
ゴジラの造形、迫力、特撮(とは最近は言わんか…)、
いずれも申し分のない出来で、
着ぐるみだった元祖ゴジラとは隔世の感がある。
富士山と原発、
妙な日本家屋(合掌造り?)が同居する風景は珍だが、
これは「アメリカ人が見たニッポン」で、
ご愛嬌(笑)というものだろう。
少しずつ怪獣登場にまで盛り上げていく作劇も
きちんとツボを押さえていてワクワク、ドキドキさせる。

いいぞ、いいぞと拍手を送りたいところだが、
いよいよ現れた怪獣の正体が
ゴジラでなかったのにはちょっと拍子抜けした。
ムートーと呼ばれる怪獣は顔が多少ギャオスに似て、
姿かたちは見ようによってはエイリアンだ。
こちらの造形は正直云ってイマイチ。
全体像がなかなかピンとこないのである。
元祖ゴジラは水爆実験の結果として現代に蘇るのだが、
このムートーは原発事故が生み出した怪物ではなく、
逆に原発事故を引き起こした存在として描かれる。
結果として、
元祖にあった反核のメッセージ性は希薄である。
これはまぁアメリカ映画だから
やむを得ないと言えばやむを得ないのだが、
日本人であるぼくとしては、
福島原発事故後の「ゴジラ」が
これじゃァちょっと違うんじゃないかなあ…
という気分は否めない。
で、ようやく現れたゴジラはと言えば、
もともと体内に自然の原子炉(?)を持つという
文字通りの「怪しい獣」だった。
放射線を食べるムートーに寄生されてアタマにきた、
言わば天敵関係である。
憎っくき親の仇(?)のムートーをやっつけるために、
海底深く潜んでいたのが姿を現したという
本人にはその自覚はないが結果的に正義の味方である。
(劇中では「怪獣王は救世主か?」と表現されている。)
ま、それならそれでもいいのだが、
ぼくとしては原子力の恐怖を象徴的に体現した
「すべてを破壊せずにおかないゴジラ」を見たかった。
放射線を餌にしているはずのムートーが
最後はゴジラの吐く放射線の炎にやられてしまうのも
ちょっとよく解らない。
…というわけで
満足と欲求不満が相半ばで映画館を出たとき気づいた。
これは「ゴジラ」じゃなくて「ガメラ」じゃないか。
絶対悪の破壊神として登場した怪獣と
「地球環境の調和を取り戻すため」に戦うというのは
「平成ガメラ」のプロットそのままである。
そう考えると、
ムートーがどこかギャオスに似ていたのも
偶然ではないのではないかという気がしてくる。
パクっただろ、これ…
監督のギャレス(ギャオスに非ず)・エドワーズに
問い糺してみたい気がした。

初めに書いたように、
2014年の「ゴジラ」は「よくできた怪獣映画」である。
しかし、
先日見直した1954年の「ゴジラ」の、
核への不安と戦災の記憶とをともに背負った
悪夢のような切迫感は抜け落ちていたように思う。
1954年のゴジラは、
特撮によってではなく、
時代感覚において「リアル」だった。
今度の「ゴジラ」も
よりリアルになり得る「状況」はあったはずなのだが。

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