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フィリピンの親戚たち

フィリピン人と結婚した場合、よく言われるのが配偶者の家族や親戚から、やたらと経済支援を求められること。ビジネスを始めたい、家を建てたい、誰かが病気になった、怪我をした、子供を大学に入れたい、今日の食費がない、などなど。もう、ありとあらゆる理由でお金を要求する...ということらしいけれど、本当なんでしょうか?

直接聞いたり、本で読んだり、あまりに頻繁に耳に入る話なので、もうそれがフィリピンでは当たり前のことだと、思い込んでいる人が多いかも知れません。ところが、フィリピン人の家内と結婚して、もうすぐ20年になろうという私は、この手の無心にはほとんど縁がありませんでした。たった一回だけ、家内の叔母にお金を貸したことがあっても、担保で叔母所有の宅地、約300平米の権利書を預かったので、貸し倒れになったわけではない。

家内の親戚の顔ぶれを思い起こすと、「フィリピン=貧困」という日本で定着してしまったイメージとは違い、経済的に自立していて、他人の世話になっていない家族ばかり。大金持ちはいないけど、多くは中流レベルの生活をしています。


クリスマスに我が家に集まった
オフィレニア家の人々

まずは家内の弟ロイ。奥さんのジーナと子供二人、父親(私の義父)の5人暮らしで、本人はシライ市役所の職員で次長クラス。ジーナは市内公立小学校の教師。義父も年金をもらっていて、月の収入は合計10万円近くにはなるだろうと思います。ネグロス島の物価は、日本の1/3〜1/5なので、かなりの余裕ですね。

義父は昔、マニラで出稼ぎをしていた溶接工、10年前に亡くなった義母は高校教師。その長女の家内は、フィリピン大学ビサヤ分校の研究員でした。そして弟ロイは、この両親が購入した持ち家に住み、数年前には安い車種ながらも新車を購入。

次にリトル・マミーこと、家内の叔母(つまり義母の妹)。リトル・マミーも姉と同じく元高校教師。娘のルビーとレイチェルは二人とも看護士で、アメリカのシカゴで働いています。リトル・マミーは、その仕送りと年金で生活。以前は一緒にシカゴで住んでいましたが、ライフスタイルに馴染めず一人で帰国。今はもう一人の息子ラルフと同居。やはり家があって、自家用車もある。

同じくシカゴ在住の叔父ノノイ。リトル・マミーの娘たちと同業の看護士で、奥さんも病院勤め。最近一時帰国した娘の医大生ケビンは、オフィレニア家初の医師を目指して勉強中。

そしてラルフ。数年前に結婚し一時はマニラでカジノのカードディーラーをしていました。昨年ネグロスに戻り、今はショッピングモール内のフードコートで、小さいながらもブースのオーナー。奥さんは保険会社アクサの営業をしています。

従弟のパウロは、これまた小学校の先生。レイテ島にある亡くなったお父さんの実家に引っ越して、お母さん(家内の叔母)と一緒に、慎ましいけれど安定した暮らしをしているようです。

こんな具合に、家内の母方オフィレニアの人々は皆、比較的いい生活をしている。実はこのオフィレニア家、戦前はシライの名士だったそうです。戦時中の1940〜45には、家内の大伯父がシライ市長を勤めるほど。ところがその後、一族は没落し、義母が子供の頃はボロボロの家に大勢で暮らし、寝るときには屋根に空いた穴から星が見えたんだとか。ただ、多くのフィリピン困窮家庭とは異なり、家内の祖父母は、子供達には何とか人並みの教育を受けさせた。その甲斐があって、全員が貧困から脱出したというわけです。


シライ市庁舎に飾られる歴代市長の肖像画
その中に家内の大伯父がいます
何となく息子に似ている

私が家内と付き合っていた当時、親兄弟の生活レベルは分かっていても、親戚全部の状況を知っていたわけではありません。ややこしい親戚が一人もいなかったのは、私にとっては幸運でした。幸運どころかそれが当たり前で、かなり最近まで、家族や親戚が金を借りようと集まってくるなんてことは、よほど運が悪いんだとさえ思っていました。

もちろん、一目惚れ状態で盲目的に、結婚まで突っ走ったわけではありません。英語での意思疎通は十分できたし、もし親戚に問題があったら、何らかの対策は講じていたでしょう。ところが、目をつぶって断崖絶壁から飛び降りるような結婚をしてしまう日本人が多いのも現実。

時にはリスクを取ることも必要だし、結婚なんてある程度は勢いがないとできないもの。だからと言って、いきなり全財産を奥さん名義の銀行口座に振り込んだり、数回会っただけで、言葉さえ通じない親戚に大金を預けたり。日本人が相手ならば、絶対にしないようなことを、フィリピン人だと大丈夫と思ってしまうのは、なぜなんでしょうか?


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