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涼風のなかで考える「安保法制」

暑さに弱いぼくはいま釧路に逃れて静養中である。
きょうはよく晴れているが、
窓を開け放てば涼やかな風が吹いてくる。


妻と我が家に滞在中の上海からの親戚は
バスで摩周や阿寒などの観光地をまわっている。
ぼくの方は、幾分かの仕事を持ってきてはいるものの、
基本は“静養”だから観光にも行かず、時間はたっぷりある。
そのたっぷりある時間を読書と思索に充てている。
考えるのはやはり参議院で審議中の安保法制のことだ。

ぼくは安保法制を巡る議論には二つの位相が必要だと考えている。
ひとつは
現在安倍政権によって提起されている
集団的自衛権は「違憲」ではないかということ。
これは手続き論というより、民主主義の根幹に関わる理念的な問題である。
もうひとつは現実論として、
安倍政権が推し進めるアメリカとの同盟強化が
果たして本当に日本の安全保障に資するかという問題である。
理念と現実の両面から、
ぼくは現在の安保法制はあまりに問題が多いと判断している。
そして、
現実から目を逸らせようとしているとしか思えない、
ジャーナリストや元官僚ら自称「現実主義者」による
現実を無視した「現実論」の流布にひどく苛立っている。

考えていることをまとめておこう。
理念の問題から書けば、
安保法制の最大の問題点は、
正面からの憲法改定を不可能と見た安倍首相が
解釈によって実質的な改憲を実現しようとする姑息さにある。
憲法9条と安全保障をどう両立させるかについては、
歴代政権は矛盾に苦しみながらもバランスを保とうとしてきた。
2003年の対イラク戦争における
国連決議を伴わない、従ってアメリカの「私戦」への参画など、
ときに大義名分を失いながらも、
試行錯誤しながら安全保障のあり方を模索してきた。
自衛隊が憲法が保持を禁じる「戦力」であるかどうかは、
字面を読めばいうまでもないことで「戦力」に決まっている。
しかし、現実には、
憲法9条と自衛隊の両立が
ある種の微妙なバランスのなかで
戦後日本の「国のあり方」を形作ってきたわけで、
憲法が一定の歯止めとして機能してきたことは疑いない。
そういう意味で、
憲法を守りながら自衛隊を保持してきたことは、
日本人のある種の“世間知”として肯定的に捉えるべきだろう。
そう考える国民が多いからこそ、
安倍首相は憲法改定を断念せざるを得なかったのである。

この夏、安倍政権がやろうとしているのは、
こうした試行錯誤の歴史とは断絶したところで、
一内閣の恣意で憲法解釈を根底から変えようというものである。
そうなれば、
民主主義の基礎をなす立憲主義や法治主義は意味をなさなくなる。
事実上、政権が基本法たる憲法の上に立つという倒錯が現実となる。
安倍首相の側近であるらしい複数の自民党議員が
立憲主義や法的安定性、
さらには基本的人権までを否定してみせるのは、
決して一部議員の跳ね上がった「暴走」ではなく、
安倍首相のホンネの部分を代弁しているのは明らかである。

歴史家(ジャーナリスト)の保阪正康さんは
その新著「安倍首相の『歴史観』を問う」のなかで、
戦前の明治憲法に触れて、
憲法上、天皇の大権のひとつであるにすぎない「統帥権」を
軍部が我田引水的に拡大解釈した事実上の「解釈改憲」の結果が、
歯止めなき戦争への道だったと指摘している。
私たちは明治憲法そのものが問題だったと考えがちで、
むろんそれも間違った理解ではない。
それにしてもなお、
明治憲法における立憲主義が
軍部によって否定されたという歴史的事実があり、
恣意的な「解釈改憲」が日本の破局を招いたという指摘は重い。

そのうえ、今回の安保法制は、
安倍首相がアメリカ議会でこの夏の成立を「約束」したもので、
その経緯から強引に成立を推し進めているわけだから、
主権者たる国民からすればそもそも「筋が違う」話である。
いったいどこを見て政治をしているのだ、と呆れざるを得ない。
報道によれば、
防衛大臣は国会で、
「アメリカのニーズ」があるから
弾薬や手りゅう弾、ミサイルまで「武器ではない」と答弁したという。
正直といえば正直な話で恐れ入るしかないが、
この政権と安保法制の本質を余すところなく物語っている。

第二の論点、
「集団的自衛権」が現実の安全保障たりうるかという問題は、
まさにこの点に関わっている。
安倍首相はテレビに出て、
「アメリカの“はなれ”が火事で日本に類焼の危険性がある場合…」等と
意味不明の例え話をして大方の失笑を買ったが、
なぜ個別自衛権で対処できず集団自衛権が必要なのかという
肝心なところの説明がまるでできていないので、
こうした馬鹿げた例え話を持ち出すしかなくなるわけだ。
例え話をするなら
武力行使とは全く性格を異にする火事などではなく、
「アメリカの喧嘩の助っ人を買って出る」と端的に言うべきだが、
なぜ他所の土地まで出かけていって
売られてもいない喧嘩を始める必要があるのか、
(政府は先制攻撃もありうると答弁している)
「自衛」の文脈では語り得ないのでこういう支離滅裂な話になる。

自称「現実主義者」のなかには
「中国の脅威」をことさらに持ち出す論者がいるが、
これも「アメリカの戦争」に日本が参戦する論拠にはならない。
ともかくアメリカのいうことは何でも聞いて歓心を買い、
いざとなったらアメリカに守ってもらうのを期待するというなら
それはそれで「わからなくはない」が、
それではあまりに情けない国家のありようだからか、
アケスケにそう主張する論者はいないようだ。
現実には「アメリカの喧嘩の助っ人を買って出る」ことは、
本来日本の敵ではなかったはずの国や勢力を敵に回すわけで、
安全保障上のリスクを増やす結果にしかならない。
いうまでもないことだが、
国家の安全保障とは単純な武力行使に終始する問題ではない。
安全保障の基本は「敵を作らない」ことであり、
領土問題など対立点がある場合は
どう交渉をして決定的な破局を避けるかというのが基本だ。

かつて田中角栄と周恩来は尖閣諸島の帰属を棚上げで合意した。
双方の主張は主張として、
日本の実効支配を中国が事実上黙認するかたちで
問題が決定的な対立に至るのを回避した経緯がある。
そうした微妙なバランスを決定的に崩したのが、
石原慎太郎都知事(当時)による尖閣買収というスタンドプレイだった。
愛国者気取りで薮から蛇を突き出し、
日本の安全保障を危機的状況に至らせたことは記憶に新しい。
中国との関係でいえば、
現状では経済関係をより深め、
抜き差しならない経済的相互依存のかたちを作り上げるのが
最も効果的な安全保障になるというのが、
現実的で、かつ冷静な判断ではないかと思う。
少なくとも隣国である中国を公然と仮想敵国視することが
安全保障の基本を外した愚策であり、
国民の安全を危機にさらしかねないのは明らかだろう。
安全保障とは、
外交、経済、軍事のすべての局面で追求されるべき、
まさに「政治」そのものである。
戦争は政治の継続だと喝破したのは「戦争論」のクラウゼヴィッツだが、
「戦争」(武力行使)ばかりが語られていて、
肝心の「政治」の姿が背景にかき消されている現状は異常である。

ただ安倍政権が強引に安保法制を進めようとする背景には、
政策判断のミスでは片づけられない問題があるとぼくは判断している。
先に書いたアメリカ議会での「約束」ひとつとってみても、
実は本質は安全保障でもなんでもなく、
「アメリカとの同盟強化」こそが
安倍政権の優先的な政策目標ではないかということだ。
「同盟強化」と書いたが、現実には「従属強化」である。

先日、厚木基地騒音訴訟の二審判決があったが、
自衛隊機の騒音による被害は認定されても、
米軍機についてはアンタッチャブルな問題として捨て置かれた。
これは日本国民の基本的人権に関わる問題であっても、
日本国内の米軍基地には適用されないということに他ならない。
事実上の「治外法権」であり、「主権制限」である。
騒音だけの問題ではない。
首都圏上空の管制権は米軍横田基地に握られていて、
民間機の発着は米軍の許す範囲でしか認められていない現実がある。
アメリカの支配下に置かれているのは何も沖縄ばかりの話ではない。
敗戦後70年が経っても日本は明白な主権制限の下にある。
日本が「普通の国」になる必要性を強く主張する安倍首相が、
こうした「普通の国」とは言い難い現実について
一言も言明しない事実が彼の政治姿勢の根幹を物語っている。
政府や民間企業が盗聴されていたことが明らかになっても、
まともに抗議ひとつしないのが
「日本を取り戻す」と常々主張する
「愛国者」による政権のまぎれもない現実である。
安倍首相の政策目標は実はアメリカとともに戦争をすることにあって、
「安全保障」は言わばそのための方便に過ぎず、
真剣に考えているわけではなさそうだとぼくは本気で疑っている。

安保法制の問題は、
「理念」と「現実」の二つの論点から考えるべきである。
そして、そのどちらをとってみても、
安倍政権の姿勢は危険極まりないものだと言わざるを得ない。

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