残業は業務命令
仮にあなたが、フィリピンで会社を経営していたとします。大きな仕事が入って、どんなに業務が忙しくなったとしても、もしあなたが何も言わなければ、フィリピン人の従業員は定時になったら、一人残らずトットと退社するでしょう。
これは想像で書いた話ではなく、私が某日本メーカーの従業員だった頃、実際に出張先のフィリピンで見た光景です。結局その日、会社に居残ったのは私を含めて日本人ばかりでした。
残業とは業務命令があって、初めて行うこと。本当は日本でも同じルールのはずで、私が新人だった1980年代、先輩社員からそのように教わりました。ところが、自分の仕事が終わったと思って帰ろうとすると、部長さんにエラい怒られてしまった。
あれから30年が過ぎて、ようやく日本もフィリピン並みの常識が広まる兆しが。大手広告代理店での若い社員の自殺という、たいへん痛ましい事件がきっかけで、労働基準法を企業に遵守させる圧力がかかるようになりました。考えてみると、それまで法律がなかったのではなく、その解釈と運用で逃げていただけの話。
一度「時勢」が動き出すと、今まで正義だったことが、あっという間に悪になるのは、なんとも日本らしい。歴史を振り返ってみると、それまで尊王攘夷をだったはずなのに、明治政府ができた途端、文明開化と称して江戸以前の伝統を全部捨ててしまうし、廃仏毀釈の掛け声で、昨日まで拝んでいた仏像を、坊主が薪にして燃やしてしまう。太平洋戦争では、一億玉砕・鬼畜米英が、昭和20年8月15日を境に、一億総懺悔・民主主義に転じて、学校では教科書に墨を塗らせる。
なんとも節操のない国民性かと思う反面、かつてのロシア・中国のような、国の体制を変えるために何十万、何百万の命を犠牲にした革命や、思想・宗教の違いを原因とした何世代も続く対立に比べると、はるかにマシなのかも知れません。
話が少々大げさになりましたが、元々が無思想・無宗教の日本人には、時勢に乗り遅れて仲間外れになるのが、一番恐ろしい事なのでしょうね。おそらく労働時間や働き方に関しては、短い期間で劇的に変わっていくと思われます。ただし極端な変化は、強い副作用を伴うもの。ここ数年ぐらいは、どんな問題が持ち上がるか予測ができません。
そんなことを考えていたところ、時代を象徴するような記事を見つけました。かっぱえびせんでお馴染みの食品メーカー、カルビーが在宅勤務の制限を撤廃。つまり、会社に来る必要がなく、自宅でもカフェでもネットさえ繋がればどこで仕事をしてもOK。評価は労働時間と無関係に、成果だけで行うことを発表したそうです。
これは残業がどうのこうのという議論を飛び越して、働き方の根本を変える画期的な決断。成果さえ出れば、費やした時間が10時間でも5分でも同じ評価になるのですから、誰もが一番効率的なやり方を考えるようになる。しかも毎日決まった時間に通勤する必要もなく、例えば私のように国外に住んでいる人間でも、同じように働いて給料を貰える。もっとも当初は、週に一度は出社することになるらしいですが、あの苦痛に満ちた通勤地獄が緩和されるだけでも、大いに価値ありです。
このやり方で実際に業績を上げた会社があるそうなので、これは掛け声だけでは終わらない。自分が先頭を切って走り始めるのは、からっきし苦手な日本人も、誰かがそれで得をしているとなると、節操がなかろうが手のひら返しと言われようが、全員が走り始めるもの。私も日本人ですから、その感覚は痛いほど分かります。
この記事でも指摘されているように、時間を切り売りすることが当たり前の人には、かなり厳しいことになるのは間違いないでしょう。それでも私は、旧来の仕組みよりも、はるかにいいと感じています。もしこれが10年前に実現されていたなら、ひょっとすると早期退職してフィリピンに移住する道は、選んでいなかったかも知れません。
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